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2004年 12月 05日
東宮西宮(1997、中国)
↓USA版DVD(英語字幕)
東宮西宮(1997、中国)_a0021929_213371.jpg 1997年、カンヌ映画祭の「ある視点」部門に出品された一本の映画「東宮西宮」。監督は、新進気鋭の中国人、張元(チャン・ユアン)。ところが、同性愛を真正面から扱ったという内容が当局の怒りを買い、パスポートを取り上げられた監督は映画祭に参加出来なかった。この事件は、カンヌから遠く離れた地に住む、自分のような一般人の耳にも入ってくるくらいだったのだから、相当物議を醸したのだろう。
 日本では、第11回福岡アジア映画祭(1997年7月)、第7回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(1998年5月)を経てロードショー公開された。

 鈍色の、寒々しい公園の中を、ゆっくりと、舐めるようにカメラが移動してゆく。舞台は天安門広場脇にある公園だ。公園は、この当時の中国においては「いないことになっている」はずの同性愛者たちが、密かに相手を見つけるための出会いの場、いわゆる「ハッテン場」となっている。
 しかしここでは、そのような行動は風紀を乱すものとして取り締まりの対象になる。そんな中、主人公のアランは、警官・小史と出会う。「派出所に連行される同性愛者」と「尋問する警官」という立場で。
 捕らえられたアランはしかし、ひとすじの動揺も畏れも見せない。そして、静かに同性愛者としての自分の人生を語り始める。
 彼を捕らえたのは警官の方だ。この生意気な変態性欲者は自分の支配下にある。罵倒し殴ることも、足蹴にすることも、思いのままだ。
 だが警官は、アランの語りに否応なく引き込まれていく。そしていつの間にか、心理的な立場が逆転していることに気付く。アランの紡ぎ出す言葉に、なす術もなく絡め取られていくのを感じ、たじろぐ警官。アランが語る過去の「男」の姿が、警官の中で自身に変容していく。馬鹿な。捕らえられたのは、魅入られたのは実は俺の方なのか?
 あまつさえアランはまっすぐ警官を見据え、「あなたを愛している」と告白するのだ。だが無論、それを認める訳にはいかない。追いつめられた警官は、アランに対して(おそらくは性的に)強く惹かれている自分を黙殺するべく、混乱の中でひとつの決断をする。俺は異性愛者だ。俺がこの忌々しい変態の「病気」を「治して」やらなくてはいけない、と。

 物語の大半は、夜の派出所という狭い空間の中で展開される。息詰まる心理劇のような構成は、さながら舞台劇のようである。相反するようだが、非常にストイックで、そして、ぞくぞくするほどエロティックな作品だ。
 おびただしい鳥や虫の声、遠くから聞こえてくる街の喧噪、したたる水の音。闇の色を溶かす派出所のあかり。とりわけ夜の描写が素晴らしい。次第に空が白んでゆく明け方の風景が息を呑むほど美しい。
 主役二人の抑えた演技、一転して息を呑むクライマックスの激情、明るさとかなしみがないまぜになったような、奇妙で複雑な終焉。ラストシーンの衝撃は、いまだもって忘れることができない。公開中、憑かれたように5回、6回と映画館に足を運び、ビデオ(ビデオ版の邦題は「インペリアル・パレス」)を購入し、繰り返し繰り返し見ても飽きたらぬほど、この映画にはまりこんだ。まさに沈没状態である。2003年3月に、公開から5年経って初めてリバイバル上映(於東京・新宿武蔵野館)があったのはとても嬉しい出来事だった。久しぶりに大スクリーンでの「東宮西宮」を堪能することができた。

 二人の主役の演技が素晴らしい。
 アラン役の司汗(スー・ハン)(←日本版では「シー・ハン」と表記されているが、北京語の「司」はピンインで「si」と表記するため、読み違えたものだろうと推測)は、プロの俳優ではなく、元々は張元チームのクルーだった所を主役に抜擢されたとのこと。鬼気迫る堂々とした演技と、圧倒的な存在感はとても素人とは思えない。「東宮西宮」出演後、ぱったり消息が途絶えている彼のことが気になって色々調べたところ、ヨーロッパのサイトで彼のインタビュー記事や、その後の消息についての記述を見つけることができた。
 現在、彼はスウェーデンの大学で、美術史の研究者として教鞭をとっている。元々俳優志望だったそうだが、当時の中国で、彼のような華奢で小柄な男性が俳優になるチャンスは無かった。彼は研究者の道を選び、二十四歳だった「東宮西宮」撮影時には、既にスウェーデンに移住することを決めていたという。つまり、「東宮西宮」は、彼の俳優として最初で最後の、全身全霊をかけた作品だったのだ。
 警官役の胡軍(フー・ジュン)は名門・北京中央戯劇学院出身の俳優。一方的に語る「攻め」のアランに対して受け身のポジションにあり、極端に制限された動きの中で心理的変化を表現しなくてはいけない、という難役を見事に演じている。「東宮西宮」撮影時は二十八歳(にはとても見えねー!)の、まだ無名の舞台俳優だったが、それから数年後、スタンリー・クワン監督の映画「藍宇」に陳捍東役で出演し、映画の成功と共に瞬く間にスターダムの階段を駆け上がっていった。最近日本公開された香港映画「インファナル・アフェアⅡ」にも、アンソニー・ウォンの上司役として出演している。
 「東宮西宮」公開当時、あか抜けない風貌にもかかわらず、立ち姿が異様に格好いい警官役の俳優が気になって気になって仕方なかったが、出演俳優に関する情報は全くと言っていいほど無く、以後3年ほど悶々とする羽目になった。その彼が、またしても同性愛を扱った映画(「藍宇」)に出演したと知った時の衝撃たるや。今やメジャー街道まっしぐらの彼であるが、これからも様々なタイプの役柄を演じてほしいところである。
 
 最後に。
東宮西宮(1997、中国)_a0021929_1718128.jpg 2002年、念願叶って北京へ行くことができた。滞在した3日間の大半を、「東宮西宮」ロケを行ったという天安門脇の中山公園と労働人民文化宮を彷徨うことに費やしたのだが、折しも急速な経済発展を遂げている中国。あっちこっちで古いものががっつんがっつん破壊され、どんどん街が変化している渦中にあって、トイレはぴかぴか、公園の遊歩道は工事中。「東宮西宮」撮影時の面影はほとんど残っていなかった。
# by terrarossa | 2004-12-05 09:31 | 映画
2004年 11月 10日
なんで映画を見るんだろう
なんで映画を見るんだろう_a0021929_4582564.jpg

初めて映画館へ行ったのは、高校2年の時だった。
それ以前に映画館で映画を見た記憶は無い。

次に映画館へ行ったのは、大学進学のため首都圏へ引っ越してからだった。
そこで初めて単館公開の、いわゆる「ミニシアター系映画」の存在を知った。

就職のため、再び地方での生活に戻ることになった。
何度かの転勤を経て、今は、最寄り映画館まで約50㎞というところに住んでいる。

7年前に中国語圏の映画にはまりこんで以降、見る映画の本数が格段に増えた。
地元では主にハリウッド系の作品しか公開されないから、鑑賞料金の10倍近くの交通費をかけて東京まで行くようになった。
とはいえ、あれもこれも見たいと思ったところで、かかる金と時間が半端じゃないから、たいした本数は見ていない。

映画を見ている内は現実を忘れられる。自分のことや仕事のことを考えなくていい。
現実逃避……それが映画を見に行く唯一の理由だ。
見たから何をするということでもなく、ぼんやり映画の世界に浮かんで揺られているだけ。
つまり、そんなことのために膨大な金と時間を費やしているのだ。

もちろん映画を見終わった後は、いつもなにがしかの思いを抱く。それだけは確かだ。
下手すると、それが実際の生活に影響するくらい引きずることさえある。
だが、それを書き留めようとすると、言葉が全然出てこない。いつだってそうだ。
結局つっかえて固まって、粉々に砕け散る。
映画評論・感想をテーマにしたインターネットサイトは星の数ほどあるし、みな書きたいことを自由に書いている。
そのことを、ただ、ただ、凄いと思う。

いつか自分も、感じたことを言葉にして思うとおり書ける日が来るのだろうか。
# by terrarossa | 2004-11-10 02:10 | 映画
2004年 10月 22日
うしのかおり
 うしのかおり_a0021929_45231100.jpg
 就職して3年目の夏に、初めて海外旅行へ行った。行き先はベルギーとオランダ。ベルギーもオランダも花屋だらけで、花が至る所にあふれかえっていた。小さな駅の売店にも花専門スペースがあり、駅を出るとまた花屋のスタンド。ごっついオッサンが、新聞紙にくるんだでかい花束をひょいと肩にかけて歩いていたりする。ひとの家を訪問する際、日本ならば菓子折を持参するところ、かの国では花を持っていくらしい。ということで、種類ごとのばら売りだけでなく、花束にして販売しているものも多かった。とにもかくにも百花繚乱とはこのことか。さすが「花の国」であることよ。
 当然、各家庭での庭も、えらく気合いが入っていた。ベランダはプランターやハンギングバスケットに植えられた花々で飾られ、洗濯物は見あたらない(ベルギー在住の知人に聞いたところ、こちらでは洗濯物を人目につくところへ干すということに関して、何らかの規制が設けられているとのことだった。アジアじゃベランダといえば洗濯物、香港で目撃した満艦飾は、そりゃあ壮観な眺めだった、ということを思うと、ずいぶん状況が違う)。郊外の住宅の庭は、目にも眩しい緑の芝生を囲むように様々な季節の草花が美しく配置してあり、雑草の一本も生えていない。毎日ピンセットで雑草のひこばえを抜いてるのかあ?と思ってしまうくらいの完璧さだった。絵のような風景とはこのことか。
 花で飾る・庭を手入れする、という人々の関心が非常に高いから、このような状況にある訳なのだが、環境条件に助けられている点もあると思う。同等のレベルを日本(特に関東以西)で維持するとなると、更に数倍の努力と工夫が必要となるに違いない。
 行ってわかったことだが、まず、そこいらで見かける虫、雑草の種類が非常に少ない。夏季も降雨が少なく、湿度が低くて涼しいという気象条件によるものだろう。蒸し暑いアジアの夏とは明らかに違う。当然、植物にかかる病気も害虫も少ないと思われる。そういえば向こうの住宅に網戸などというものはなかった。入ってくる虫がいなければ、そんな余計なものは必要ない(知人の子供は「蚊に刺されたことがない」と言っていた)。どうりで裸になって森林浴だってできる訳だ。

 そして、行ってわかった極めつけの事実、それは「うしのかおり」。花の国であると同時に畜産の国であるオランダでは、あふれかえっているのは花だけでなく、牛や羊もまた然り、であった。そう、絵のように美しい庭の風景に充ち満ちているのは牛の香り、牛舎のにおい。イメージぶち壊しである。
 現物無しに「におい」の情報をリアルタイムに伝達する手段は、幸いなことに(?)まだないようだ。いや、日夜技術革新は進んでいるのだから、将来「におい」の情報もダイレクトに嗅覚へ伝わるようになるのかもしれない。となれば、日本に居ながら、絵のように美しい庭々と牛の香りでリアル・オランダを満喫することができるのかも……満喫したくはないが。
# by terrarossa | 2004-10-22 04:56 | 見聞録
2004年 10月 18日
ジェリー(2002、アメリカ)
 この夏、渋谷シネマライズ隣にオープンしたばかりのRISE Xというすごく縦長の、ヘンな構造の映画館(もともと映画館として作られたのではない所を映画館として改装したらしい)で、ガス・ヴァン・サント監督の「ジェリー」を鑑賞した。

 互いに「ジェリー」と呼び合う二人の若者が砂漠で迷う、というシンプルなストーリーである。実話をヒントにして作られたということだが、作中で彼らの関係や、行動の目的は最後まで明かされない。観客に対して非常に不親切なつくりの、早い話がとても「実験的」な映画だ。
 二人の会話に登場する「ジェリー」という謎の単語は、名詞であり、形容詞であり、動詞でもある。イケてないものや、しくじったことに対しても用いられる。日本語に置き換えるとしたら……仮に「タコ」としてみるとこんな感じか。「おい、タコ」「なんだよ、タコ」「それってすんげえタコだぜ」「畜生、タコっちまった」
 そういうニュアンスで「ジェリー」という言葉が使われているのだとしたら、彼らの間柄はかなり親しいものなのだろうと、容易に想像できる。
 そんな二人が、ふらりと砂漠にピクニックに出かけたつもりが、思いがけず迷ってしまう。手ぶらで出かけたのだから、最初は本当に散歩程度の目的だったのだろう。だからこそ、事態が抜き差しならない状況に陥っていることも自覚せず、ずいぶん後になるまで軽口を叩き、ふざけ合ったりしていたのだ。
 だが、飢えと乾きと暑さは、じわじわと彼らの体力と正常な思考力を奪ってゆく。「出口なし」を暗示する幻覚、そして最後の理不尽な行動と結末。何故そこに至ったのかを説明していないにもかかわらず、不思議と何もかも納得してしまえるくらい、砂漠をあてもなく彷徨う二人の姿と、果てしない砂漠の風景を丁寧に、克明に描写している。逆に言えば、上映時間103分間の大半、そのことしか描いていない。
 この手の実験映画というのは、往々にして作り手の「とんがった意気込み」とか「傲慢さ」が鼻について辟易するパターンが多いのだけれど、この作品からはそういったものが漂ってこない。十分にキャリアを積んだ監督の作品だから、というより、自分の感性に引っかかったからこそ、そう思えただけのことかもしれない。
 いずれにせよ「エレファント」を観た時と同様、砂を飲みこんだような、何とも言えない重たさをしばらく引きずる羽目になった。

 「エレファント」、「ジェリー」と鑑賞して、とりわけ印象的だったのは、このひとが撮る「空」だ。そういえば昔見た「マイ・プライベート・アイダホ」や「グッド・ウィル・ハンティング」もガス・ヴァン・サント作品だった!どちらも細部の記憶はおぼろげになっているが、空の描写に惹かれた記憶がある。登場人物達がふと仰ぎ見る、あるいは彼らの上に横たわる空の色。晴れているのにどこか気合いが入っていない、だらりと広がる彩度の低い黄色っぽい青、ざらついた晴天の空。「ジェリー」に至っては、砂漠の空でさえも最後までぼんやりけむっていて、「死」を感じさせる鋭さはない。
 空は空でしかないはずなのだが、ガス・ヴァン・サントの「空」からは、奇妙な優しさのようなものが感じられる。空はいつも、地上で起きている理不尽で陰惨な、あるいは哀しみに満ちた出来事の数々を静かに見守っているのだ、と思わせるような。
 緑味を帯びた青空の描写、といえば、ウォン・カーウァイ監督の「ブエノスアイレス」ポスターが真っ先に頭に浮かぶ。この映画に登場する「空」もとても好きだ。偶然だが、「ジェリー」もアルゼンチンで撮影された部分があるという。むろん、それぞれ映画の内容に合うよう撮影している(あるいは、加工している)のだろうから、アルゼンチンの青空が即、ああいうものだとは思わないが、そういう撮り方をしたくなるような「アルゼンチンの空」とはどんなものなのか、実際に行って見てみたくなったのは確かだ。
# by terrarossa | 2004-10-18 05:52 | 映画
2004年 10月 13日
黒椿とヤマナメクジ
 ある時、京都府の日本海側に位置する加悦町(かやちょう)というところに「滝の黒椿」という樹齢1000年を超える椿の巨木があるということを知り、見に行きたくなった。当時、時間はあったが金がなかったので、友人と共に普通列車と路線バスを使い、12時間ほどかけて彼の地に降り立った。ところが、黒椿がある地区は、だいぶ以前に廃村になっており、当然路線バスなど通っているはずもなかった。ということで、霧雨でじっとり濡れながら山あいの道を2時間ほど歩く羽目になった。
 やがて、うち捨てられ、崩れかけた廃屋が点在する集落跡が見えてきた。草はぼうぼうで、木々が道に覆い被さるように茂っている。ただでさえ薄暗いのに雨が降っていて、いっそう不気味な雰囲気だった。椿は、そんな緑に埋もれるようにして、山の斜面にひっそりと立っていた。近づくと、つややかな濃緑色の葉の合間に、小さめの臙脂色の花がぽつぽつ咲いているのが見えた。
 確かに見事な巨木だったけれど、何せ周囲の緑が濃いのと雨で薄暗かったので、ほんとうに埋もれるように、忘れ去られたように、寂しくそこにあったのが印象的だった。一方で、そんな佇まいがこの木にはとても相応しいように感じたのだった(今は、木の周囲はきれいに整備されているようなので、うら寂しい雰囲気はあまり感じられないかもしれない)。

 さて、椿を見終えて来た道を戻ることにした。いつの間にか雨は上がり、雲の切れ間から時折日が差すようになってきた。雨上がりの山道を、はやくも翅が乾いたチョウが飛び交う。道の脇にはだいぶん水かさを増したと思われる小川が流れている。と、ここで信じられないものを目撃した。
黒椿とヤマナメクジ_a0021929_2304281.jpg
 
 およそ都市部では見かけることのない、直径3㎝、長さ15㎝の巨大ナメクジだった(写真)。一緒に写っているのは同行した友人の手である。
 知ってる人からしたら「何をこの程度のことで」と言われるようなことかもしれないが、この時は大真面目に「生きていると、色々なものに出会うのだなあ」などと感慨にふけったのだった。
 ツノが体の大きさに比してやけに小さく見えるのが何だかとても可愛らしい。ようはツノだけ標準サイズなのだ。指で押すと、体は弾力に満ちあふれていて、むっちむちである。
 やがてそいつは水べりをのたーっと移動し始めた。が、目測を誤ったのか、ぽちゃんと水に落っこちて、渦巻く水の中、くるくる回転しながら流れ去ってしまった。わずか10分間の邂逅であった。
 この、京都の山中で目撃した巨大ナメクジは「ヤマナメクジ」という名で、その名の通り、山の中で落ち葉などを食糧としている種類なんだそうだ。人目につかないところに生息しているだけで、そんなに珍しい種類ではないらしい。こうして目撃できたのも、雨が降っていたせいだろう。
 どうかこれからも山奥でひっそりと暮らしていてほしいものである。
 もしこんなのが人里にうじゃうじゃいて、集団で生ごみをあさっていたりしたら、ただじゃすまないだろうからな。

 長い時間をかけて美しい椿を見に行ったつもりが、帰ってきてみれば、ヤマナメクジとの衝撃的な出会いのことで頭がいっぱい、という顛末。なんだかなあ。
# by terrarossa | 2004-10-13 02:46 | いきもの