2004年 10月 18日
ジェリー(2002、アメリカ)
 この夏、渋谷シネマライズ隣にオープンしたばかりのRISE Xというすごく縦長の、ヘンな構造の映画館(もともと映画館として作られたのではない所を映画館として改装したらしい)で、ガス・ヴァン・サント監督の「ジェリー」を鑑賞した。

 互いに「ジェリー」と呼び合う二人の若者が砂漠で迷う、というシンプルなストーリーである。実話をヒントにして作られたということだが、作中で彼らの関係や、行動の目的は最後まで明かされない。観客に対して非常に不親切なつくりの、早い話がとても「実験的」な映画だ。
 二人の会話に登場する「ジェリー」という謎の単語は、名詞であり、形容詞であり、動詞でもある。イケてないものや、しくじったことに対しても用いられる。日本語に置き換えるとしたら……仮に「タコ」としてみるとこんな感じか。「おい、タコ」「なんだよ、タコ」「それってすんげえタコだぜ」「畜生、タコっちまった」
 そういうニュアンスで「ジェリー」という言葉が使われているのだとしたら、彼らの間柄はかなり親しいものなのだろうと、容易に想像できる。
 そんな二人が、ふらりと砂漠にピクニックに出かけたつもりが、思いがけず迷ってしまう。手ぶらで出かけたのだから、最初は本当に散歩程度の目的だったのだろう。だからこそ、事態が抜き差しならない状況に陥っていることも自覚せず、ずいぶん後になるまで軽口を叩き、ふざけ合ったりしていたのだ。
 だが、飢えと乾きと暑さは、じわじわと彼らの体力と正常な思考力を奪ってゆく。「出口なし」を暗示する幻覚、そして最後の理不尽な行動と結末。何故そこに至ったのかを説明していないにもかかわらず、不思議と何もかも納得してしまえるくらい、砂漠をあてもなく彷徨う二人の姿と、果てしない砂漠の風景を丁寧に、克明に描写している。逆に言えば、上映時間103分間の大半、そのことしか描いていない。
 この手の実験映画というのは、往々にして作り手の「とんがった意気込み」とか「傲慢さ」が鼻について辟易するパターンが多いのだけれど、この作品からはそういったものが漂ってこない。十分にキャリアを積んだ監督の作品だから、というより、自分の感性に引っかかったからこそ、そう思えただけのことかもしれない。
 いずれにせよ「エレファント」を観た時と同様、砂を飲みこんだような、何とも言えない重たさをしばらく引きずる羽目になった。

 「エレファント」、「ジェリー」と鑑賞して、とりわけ印象的だったのは、このひとが撮る「空」だ。そういえば昔見た「マイ・プライベート・アイダホ」や「グッド・ウィル・ハンティング」もガス・ヴァン・サント作品だった!どちらも細部の記憶はおぼろげになっているが、空の描写に惹かれた記憶がある。登場人物達がふと仰ぎ見る、あるいは彼らの上に横たわる空の色。晴れているのにどこか気合いが入っていない、だらりと広がる彩度の低い黄色っぽい青、ざらついた晴天の空。「ジェリー」に至っては、砂漠の空でさえも最後までぼんやりけむっていて、「死」を感じさせる鋭さはない。
 空は空でしかないはずなのだが、ガス・ヴァン・サントの「空」からは、奇妙な優しさのようなものが感じられる。空はいつも、地上で起きている理不尽で陰惨な、あるいは哀しみに満ちた出来事の数々を静かに見守っているのだ、と思わせるような。
 緑味を帯びた青空の描写、といえば、ウォン・カーウァイ監督の「ブエノスアイレス」ポスターが真っ先に頭に浮かぶ。この映画に登場する「空」もとても好きだ。偶然だが、「ジェリー」もアルゼンチンで撮影された部分があるという。むろん、それぞれ映画の内容に合うよう撮影している(あるいは、加工している)のだろうから、アルゼンチンの青空が即、ああいうものだとは思わないが、そういう撮り方をしたくなるような「アルゼンチンの空」とはどんなものなのか、実際に行って見てみたくなったのは確かだ。
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# by terrarossa | 2004-10-18 05:52 | 映画
2004年 10月 13日
黒椿とヤマナメクジ
 ある時、京都府の日本海側に位置する加悦町(かやちょう)というところに「滝の黒椿」という樹齢1000年を超える椿の巨木があるということを知り、見に行きたくなった。当時、時間はあったが金がなかったので、友人と共に普通列車と路線バスを使い、12時間ほどかけて彼の地に降り立った。ところが、黒椿がある地区は、だいぶ以前に廃村になっており、当然路線バスなど通っているはずもなかった。ということで、霧雨でじっとり濡れながら山あいの道を2時間ほど歩く羽目になった。
 やがて、うち捨てられ、崩れかけた廃屋が点在する集落跡が見えてきた。草はぼうぼうで、木々が道に覆い被さるように茂っている。ただでさえ薄暗いのに雨が降っていて、いっそう不気味な雰囲気だった。椿は、そんな緑に埋もれるようにして、山の斜面にひっそりと立っていた。近づくと、つややかな濃緑色の葉の合間に、小さめの臙脂色の花がぽつぽつ咲いているのが見えた。
 確かに見事な巨木だったけれど、何せ周囲の緑が濃いのと雨で薄暗かったので、ほんとうに埋もれるように、忘れ去られたように、寂しくそこにあったのが印象的だった。一方で、そんな佇まいがこの木にはとても相応しいように感じたのだった(今は、木の周囲はきれいに整備されているようなので、うら寂しい雰囲気はあまり感じられないかもしれない)。

 さて、椿を見終えて来た道を戻ることにした。いつの間にか雨は上がり、雲の切れ間から時折日が差すようになってきた。雨上がりの山道を、はやくも翅が乾いたチョウが飛び交う。道の脇にはだいぶん水かさを増したと思われる小川が流れている。と、ここで信じられないものを目撃した。
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 およそ都市部では見かけることのない、直径3㎝、長さ15㎝の巨大ナメクジだった(写真)。一緒に写っているのは同行した友人の手である。
 知ってる人からしたら「何をこの程度のことで」と言われるようなことかもしれないが、この時は大真面目に「生きていると、色々なものに出会うのだなあ」などと感慨にふけったのだった。
 ツノが体の大きさに比してやけに小さく見えるのが何だかとても可愛らしい。ようはツノだけ標準サイズなのだ。指で押すと、体は弾力に満ちあふれていて、むっちむちである。
 やがてそいつは水べりをのたーっと移動し始めた。が、目測を誤ったのか、ぽちゃんと水に落っこちて、渦巻く水の中、くるくる回転しながら流れ去ってしまった。わずか10分間の邂逅であった。
 この、京都の山中で目撃した巨大ナメクジは「ヤマナメクジ」という名で、その名の通り、山の中で落ち葉などを食糧としている種類なんだそうだ。人目につかないところに生息しているだけで、そんなに珍しい種類ではないらしい。こうして目撃できたのも、雨が降っていたせいだろう。
 どうかこれからも山奥でひっそりと暮らしていてほしいものである。
 もしこんなのが人里にうじゃうじゃいて、集団で生ごみをあさっていたりしたら、ただじゃすまないだろうからな。

 長い時間をかけて美しい椿を見に行ったつもりが、帰ってきてみれば、ヤマナメクジとの衝撃的な出会いのことで頭がいっぱい、という顛末。なんだかなあ。
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# by terrarossa | 2004-10-13 02:46 | いきもの
2004年 09月 23日
どっちにしてもパピヨン
a0021929_6463688.jpg 左の写真に写っているのは、「イチモンジセセリ」という、「セセリチョウ科」に属するれっきとしたチョウである。イチモンジセセリの幼虫は稲の害虫として有名。アゲハチョウ、モンシロチョウとともに最もよく目にする機会の多いチョウだが、よくガだと勘違いされている。翅の形そのものや、体に比して翅が小さく見えることが何だかとても「ガ」っぽいし、色彩の地味さ(茶の地色に白の斑点だしなあ)がいっそう「ガ」らしさを醸し出しているし。

a0021929_6475063.jpg で、こちらはイチモンジセセリよりももうちょっと派手な「サトキマダラヒカゲ」という、「ジャノメチョウ科」のチョウ。なお、本種はジャノメチョウ科の中では最も派手な部類に入ると思われる(ちょっと「ヒョウモンチョウ」っぽい)。ジャノメチョウ科のチョウは、形こそチョウに見えるが、その名の通り「蛇の目」、つまり翅に目玉模様を持ち、色彩は灰色~茶系ときわめて地味。しかも、日陰のうす暗ーい所で目撃されることが多い。よく下駄箱や階段の陰でクモの巣に引っかかりそうになりながらフラフラ飛んでいたりするので、せっかくチョウらしい形をしていても、色彩の地味さや目撃される場所(のイメージ)から、これまたガだと勘違いしている人も結構いるらしい。
 
 ここで、「ほんとはチョウなのに、ガだと勘違いされてなんか気の毒だなー」と、つい思ってしまうのは、やはり「チョウ」と「ガ」では天と地ほどのイメージの違いがあるからだろう。人間が勝手に区別しているだけで、当人(←という表現はなんかヘンだ)たちにとってはどうでもいいことなのだが、どちらに区別されるかによって当然扱いも違ってくるので、場合によっては生死を分ける事態になりうるかもしれないし(……というところまではいかないか?)。
 だが、意外にも、それだけイメージの違いがありながら、チョウとガを区別する定義は実ははっきりしていない。例えば、触角の形や色彩、翅を広げて止まるかたたんで止まるかなど、外形的な特徴の違いや、昼間飛ぶか夜飛ぶかなど、行動様式の違いが挙げられるが、必ず例外の種があり、明確な線引きをすることはできない。そもそも、チョウとガはわざわざ分類する必要もないくらい近い仲間で、言語によっては、チョウとガを区別していない場合もある。フランス語ではどっちも「パピヨン」だ。
 種類としては、ガの方が圧倒的に多い。日本産のチョウは237種ということだが、ガは5,535種もいるそうである。ずいぶんアンバランスな分け方をしたものだなあ、と思った次第。
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# by terrarossa | 2004-09-23 07:00 | いきもの
2004年 09月 20日
シベリア呆け
 今年はお盆休みを利用して、ついに念願の「ロシア→中国、陸路(鉄道)で国境越え」を果たしたのだが、帰国後、何かが燃え尽きてしまったらしく、さっぱりエンジンがかからない状態が延々と続いている。旅行中も帰国後も至って健康、体調を崩している訳ではない。それなのに、仕事から帰ってきても何もする気にならない。けれども、一ヶ月以上ほったらかしにしていたここに、こうやって何か書く気になったのだから、秋の訪れと共に少しずつ恢復しつつあるのかしらん。ぼちぼち「再起動」したい今日この頃。

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         松花江の河辺で憩う人々。どこへ行っても人でいっぱいだった中国・ハルビン市にて。
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# by terrarossa | 2004-09-20 04:28 | 見聞録
2004年 08月 06日
ユジノサハリンスクからポロナイスクへ その4
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 ユジノサハリンスク駅前には、旧共産圏らしく、無用なまでに広い、これぞまさに「広場」と言うようなスペースがある。一応舗装はされているのだが、元々雑なのか、それとも傷んだのを修理していないのか、とにかく均平でないために水たまりが至る所にできている。さらに、水たまりにはどこからか運ばれてきた泥や砂やゴミが堆積し、そこへ人と車が往来することによって、見事なぬかるみが完成。ただ、隣接の公園はきれいに整備されていたので、広場の惨状も徐々に改善されていくことになるだろう(ちなみに春、雪解け時の街は相当悲惨な状況だそうだ)。
 ほどほどに泥はねを気にしつつ、だだっ広い広場を縦断し、駅舎に入る。薄暗い待合室を囲むようにキヨスクが並ぶ。客は商品に近づくことも、触れることもできない。買いたい物があれば、ガラスの内側にびっしり貼り付けられた商品見本を指さして、腕一本入るかどうかというくらいの小さな窓口から現金と引き替えに商品を受け取るということになる。映画のチケット売り場のような感じだ。この方式は駅に限らず、町なかの売店でも同様。恐らく防犯上の理由だと思う。
 さて、駅に入ったものの、改札口と呼べるようなものはない。ホームの案内もない。ポロナイスクへ向かう長距離列車は一体どこに?
 待合室を抜けると、低い「ホーム」らしきものがあったが、その先は線路だった。客車や貨物列車があちこちに停車している。ホームがないので先頭が揃っておらず、すばらしくランダムな配置だ。間違って列車に轢かれる恐怖を感じつつ、線路をまたいで列車を探す。線路も実際歩いてみるとずいぶん高さがあって、何本もまたぎながら歩くのは結構しんどい。やっとのことでそれらしき車両にたどりつくと、乗車口に人がいたので(多分、乗務員)会話集指さし方式で訊いてみたら、この列車だという。やれやれ。
 車両は旧ソ連製とおぼしき大味(?)なつくりで、乗車した二等車は4名1室のコンパートメント形式。列車は昼間運行だが、車室は両側二段ベッドの寝台車だった。車両が大きいため、かなりゆったりとしている。なにせ9時間近く乗る予定なので、これは有り難かった。
 同室になったのは、50歳と16歳の父子。こちらはロシア語ができず、向こうは日本語も英語も全くできない。それでも彼らは、滅多に見かけることの無いであろう変な日本人観光客にそれなりの関心を持ったようだった。
 頼みの綱は「ロシア語会話集」のみ。指さし方式でどこまで通用するのだろうか。
 乗車して間もなく昼食の時間となった。この列車には食堂車は連結されておらず、車内販売も来ない。乗車前に駅前で購入したピロシキをとり出す。車両にはサモワール(湯沸かし)があり、お湯には不自由しない。ロシアの長距離列車には必ずついているのだという。同室の彼らも持参した弁当を広げる。チーズとサラミ、そしてなんとイクラのサンドイッチだった。(心の中で「オホーツクサンドイッチ」と命名)。ありそうで無い斬新な組み合わせに「写真を撮っていいか」と尋ねると、<父ちゃん>は不思議そうな笑みを浮かべつつ「いいよ」と言ってくれた。
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# by terrarossa | 2004-08-06 02:25 | 見聞録