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2005年 01月 04日
台湾一周
 暮れから年明けにかけて、台湾を時計回りに一周してきた。新年は台湾の最南端、墾丁で迎えた。4日しかない旅行期間の大半は、乗り物の中で過ごすことにあてられた。遠かった。
 家を出る時はガンガン雪が積もっていたこともあって、暖かい南台湾の気候を大いに期待していた。が、折しもかの地は例年にない寒波に見舞われており、年越しカウントダウンは寒風吹きすさぶ中行われたのだった。どんよりと曇った小雨交じりの空の下、初めて見るバシー海峡はなんだか寒々としていた。そこらに生えているのは椰子やソテツやブーゲンビリアなどの、まごうことなき熱帯植物だったのだが。

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↑墾丁公園のシンボル、大尖石山(と、クロネコヤマトの宅急便トラック。ドライバーの制服も日本と同じだった)。


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↑台東海浜公園のベンチ(および東屋の柱)の落書き。「頭文字D」、地方都市・台東でも大ブレイク。市内では、車体にでっかく「藤原とうふ店」と書かれたスポーツカーを目撃(撮影できず残念)。超かっこいいスポーツカーに「とうふ店」って……ファンだというのはわかるが、日本に住む者としては、そんなに入れあげていただいていいんだろうか、という気分にもなる。
 いやいや、なんたって台湾の大スター、周杰倫(ジェイ・チョウ)主演で映画化されるからこそ、そこまでやっちゃうのだろう。燃え上がるファンの暴走は万国共通なのだ。涙ぐましい努力の跡が感じられる(←違うだろ)。
# by terrarossa | 2005-01-04 05:20 | 見聞録
2005年 01月 01日
年賀状
このような僻地まではるばる訪れて下さった皆様、今年もどうかよろしくお願いします。
年賀状_a0021929_1525230.gif

ブログの日付は元旦にしてみたが、本当は台湾から帰った後に作成。
旅行前に仕上げるつもりでいた……いや、仕上がればいいなあとぼんやり思っていただけで、案の定このざまである。
# by terrarossa | 2005-01-01 00:00
2004年 12月 22日
ワイキキ・ブラザース(2001、韓国)
ワイキキ・ブラザース(2001、韓国)_a0021929_1123879.jpg なにやら南国ムード溢れるタイトル。DVD(韓国版)のパッケージ画像は、チョアー!ってな感じのリュ・スンボムを前面に、グループサウンズ風ひらひら衣装のバンドメンバーたちがにこにこ微笑んでいる。なんとも明るい雰囲気に、音楽コメディ映画なのかしらん、と予想してみたりする。
 ……全然そんなんではなかった。夢破れ、中年にさしかかった大人たちの、苦い苦い現実をリアルに描いた物語だったのだ。や、確かに、ロス・ロボスの「ラ・バンバ」なんぞが高らかに歌い上げられたりするから、もうちっと救いようのある話かと思っていたのだが。
 パッケージのリュ・スンボム君大フューチャーは、せめてポスターだけは軽め・明るめにしようという宣伝上の配慮だったらしい。

 この映画は、日本では2001年の東京フィルメックス、2002年のあいち国際女性映画祭で上映されたのだが、見逃してしまった。その後の公開はなく、韓国版DVDを購入して見た。ついでにサントラも手に入れた。
 
 音楽で生きていくことをめざし、念願どおりプロとなったソンウ。しかし現実は厳しく、彼はうだつの上がらない三流バンドのリーダーとして、ドサ回りの日々を続けていた。三十代も半ばにさしかかったというのに、安宿に共同で寝泊まりし、まともに食べていくことすら危うい生活。そんなある日、高校卒業以来、一度も帰っていなかった故郷にあるナイトクラブからお呼びがかかり、彼は15年ぶりに昔の友人たちと再会した。 
 高校時代、いちばん輝いていた季節の思い出がふと甦る。ミュージシャンに憧れ、仲間と練習を重ねた日々。同じ町のガールズ・バンドには、とびきり上手いボーカルの子がいた。彼女は初恋の人だった……
 だが、旧友たちは皆、とうに音楽への夢をあきらめ、順調とは言い難い毎日の生活に追われていた。
 しぶとく夢を追いかけて音楽を続けているはずのソンウも、状況は彼らと同様だった。思うような音楽活動ができない現実に耐えかねて、一人また一人と、メンバー達はバンドを離れていく。
 
 地方の田舎町での日常をどんよりと過ごす大人たちを、丁寧に、リアルに描いている。濃いキャラクターを登場させてみたり、明らかにコメディを意識して、コミカルさを狙ったとおぼしき場面が頻繁に出てくるが、あまりにもやるせない状況ゆえに、そのもくろみが全く成功していない。なのに、不思議と笑えたりもする。渦中の人間は大真面目に足掻いているのだが、かえってその必死さがどうしようもなく滑稽で、もう笑うしかない、そういう感じだ。ああ、これは「自嘲」ってやつなんだな、と思い至るのにさして時間はかからなかった。物語と、自分の今いる位置がダブって見えるがゆえの嘲笑だ。だって、不況にあえぐ地方の町、という構図はここと変わらないのだ。農協まつりなんて、雰囲気も内容も全くおんなじじゃないか(ミスコンが「ミス・とうがらし」というのが、韓国ならではだけどさ)。ムード歌謡全開バリバリの田舎のカラオケスナックも、温泉旅館のナイトクラブも、まさにあれだ。あんまり似すぎて唖然としたよ。
 物語はとことん泥臭くみっともなく、この世の無常さを説いているのだけれど、ラストシーンにほのかな希望が感じられたのが救いだ。そう、さして良くはならないし、もっと悪くなったりするかもしれないが、それでも人生は続いていくのだ。
 しかし、韓国の人たちはよく飲むなあ。画面からアルコール臭が漂ってきそうだ。

 特筆すべきは、キャスト陣の豪華さ(?)だ。無名俳優を起用し、二枚目は誰一人として居ない。が、その出演者の多くが、今や様々な作品で、個性派俳優として活躍している。こんな顔合わせはもう二度と実現しないんじゃないだろうか?イム・スルレ監督の眼力、恐るべし。
 主人公、ソンウを演じているのは舞台出身だというイ・オル。ナイトクラブで、酔っぱらったオヤジたちがホステスのオネエちゃんを裸にし、さらに自分たちもすっぽんぽんになった挙げ句、ギターを演奏していたソンウに「おまえも脱げやー!」と脱衣を強要するシーンが、とりわけ印象的だった。素っ裸にされてもなお、辛気くさい表情のまま淡々とギターを弾き続ける「裸ギター兄貴」(←一緒に映画を見ていた友人が命名)、イ・オルの強烈なインパクトたるや。圧巻の一言である。
 彼は「純愛中毒」でイ・ビョンホンの兄役を演じ、「春の日のクマは好きですか?」でも最後、わずかな出演シーンながら強い印象を残した。「ワイキキ・ブラザース」ではうらぶれた寡黙なミュージシャンを見事に演じているが、最近の出演作であるキム・ギドク監督作品「サマリア」での刑事役も、非常に高く評価されていると聞く。今から公開が待ち遠しい。
  ソンウの少年時代を演じているのが、「殺人の追憶」や、「嫉妬は我が力」での演技が認められ、今や若手のホープと言われているパク・ヘイル。これが映画デビュー作らしい。
 涙もろいドラマーのカンスは、やはり舞台出身のファン・ジョンミン。彼はもともと歌って踊れるミュージカル俳優で、ドラムもこの映画のために特訓してマスターしたそうだ。「ロードムービー」、「YMCA野球団(日本版DVDタイトルは「爆烈野球団!」)」と、出演作を立て続けに見たのだが、作品ごとに全く雰囲気が違っていて、まるで別人。もはや「驚愕」の域だ。先頃ロードショー公開された「浮気な家族」にも、主人公ムン・ソリの夫役で出演している。
 この映画で唯一はじけている金髪頭のにいちゃん、ギテ(ナイトクラブのウェイター)を演じているのはリュ・スンボム。シンセサイザーのちゃらい自動演奏をバックに、調子っ外れな歌を歌いながらくるくる踊っている彼は、まさにオアシスのような、「癒し系」のキャラクターだ。
 「品行ゼロ」では、前時代的な少年漫画のキャラクターみたいな役だった。でも、このひとの場合は、「ムッチマ・ファミリー」で演じていたホテル従業員のような、どっかネジが外れていて、すっとぼけた感じの役の方が合っている。そこにいるだけでおかしくて笑える。そういう意味で、すごく存在感のある俳優だと思う。
 バンドにさっさと見切りをつけて、物語前半で姿を消してしまうサックス奏者を演じたオ・グァンロクは、なんと「オールド・ボーイ」の冒頭に出てくる、犬を抱いた自殺志願の男であり、「春の日のクマは好きですか?」ではペ・ドゥナの父親役(浮世離れした、妙ちきりんなオヤジだった……)を演じていた俳優だった。このひとも相当な曲者に違いない。

 イム・スルレ監督の近作は、間もなく日本公開が予定されているオムニバス映画「もし、あなたなら~6つの視線」の中の1本。太った女性がいかに差別されるかということを描いたきっついブラックコメディで、これも明らかに笑いの種類は「嘲笑」。にもかかわらず、卑屈さや、馬鹿にしているような感じが全くないのは、監督が、登場人物と自分とを同じ位置に据えて映画を作っているからだろうか。クリエイターにありがちな、別の高みから見下ろしているような傲慢な視線は微塵も感じられない。
 映画には監督本人の登場シーンもちょっとだけあり、出演者に「えっ、あの太ったおばさんが監督?」という台詞を言わせたりしている。こういう映画監督はあまりいないような気もする。かっこいいよ、姐さん。
# by terrarossa | 2004-12-22 01:43 | 映画
2004年 12月 15日
カップ・ファイナル(1991、イスラエル)
カップ・ファイナル(1991、イスラエル)_a0021929_1183699.jpg 舞台は1982年のレバノン。イスラエルの兵士、コーエンは、念願だったワールドカップ(サッカーワールドカップ・1982年スペイン大会)のチケットを手に入れ、まもなく迎える除隊の日をうきうきと心待ちにしていた。ところが、除隊直前に始まったレバノン侵攻に参加させられた彼は、PLOのゲリラの襲撃を受け、捕虜になってしまう。ゲリラたちはPLOの本拠地、首都ベイルートへ向かう。徒歩で廃墟を転々としながらの移動のさなか、コーエンとゲリラのリーダー、ジアドは、ふとしたことで互いにサッカーファンであることを知る。しかも贔屓は同じイタリアチーム。ほのかな友情が芽生えた瞬間だった。
 彼らは道中、ひまつぶしにサッカーをしたり、立ち寄った家で、その家の結婚式に参加したり、開催中のワールドカップの試合を仲良くテレビ観戦したりするようになる。
 とはいえ、彼の「捕虜」という立場は変わらない。ゲリラのメンバーの中には、「憎きユダヤ人」の彼に虐待を加えようとする者もいるし、少しでも不審な行動をとれば、すぐに銃口が向けられる。トイレの紙も与えられなかった(これは虐待というより、アラブ人が紙ではなく、左手を使うという習慣のあることが関係しているのだと思う)。困り果てた彼が尻を拭くのに使ったのは、財布に入っていたワールドカップのチケット3枚のうちの、2枚だった。
 幾人かの犠牲者を出しながらも、彼らはついに首都ベイルートに到達する。だが、既にイスラエル軍は街を包囲していた。ジアドはコーエンに、自分たちと別れて仲間のもとへ帰るよう伝えた。コーエンは、1枚だけ残っていたワールドカップのチケットを友情の証としてジアドに手渡した。それは今まさに行われている決勝戦(カップ・ファイナル)のチケットだった。
 夜の闇にまぎれ、非常線を突破しようとするゲリラたちに、容赦なく銃撃が加えられる。ワールドカップ実況中のテレビには、優勝したイタリアが賞杯を受け取る瞬間が、歓喜の雄叫びを上げるマルコ・タルデリの姿が、映し出されていた……
 
 かつて、NHK教育テレビに「アジア映画劇場」という、日本ではあまり知られていないアジア地域の映画を放映してくれる番組があった。数多くの未公開映画を、全国どこに住んでいても日本語字幕付きで見られる貴重な機会だっただけに、放送終了してしまったことを非常に残念に思う(その後、アジア以外の地域も対象とした「シネマ・フロンティア」という後発番組があったのだが、どうやらそれも終了してしまったらしい)。
 「カップ・ファイナル(Cup Final)」(Eran Riklis エラン・リクリス監督)は、今から10年ほど前に「アジア映画劇場」でたまたま見た映画だった。なぜかひどく印象に残り、もう一度見たいと思っていた。が、内容はと言うと、華やかさゼロで、出てくるのは濃い系ひげ面の男ばかり。敵同士が友情を結ぶという点は韓国映画「JSA」と同じだが、イ・ヨンエに当たるキレイドコロは出てこない。派手なドンパチも恋愛沙汰もエロも皆無。個人的には、まさにその点こそが気に入ったし、よくできた作品だと思ったのだが、そういう地味な映画が一般受けするはずもない。日本においては、1994年のイスラエル映画祭で上映されたという記録は見つけたが、その後、公開もビデオ化もされた様子はない。もう一度と願ったところで、これは無理だな、とすっかり諦めていた。
 ところがつい先日、アメリカでDVDになっていることを知り、即購入。思いがけず再び見ることが叶ったのだった。
 だが、アメリカ版DVDゆえ、ヘブライ語とアラビア語の会話部分には英語の字幕がつけられていたが、英会話部分には当然何もなし。母語の違うユダヤ人とパレスチナ人は英語で意志疎通をはかっていたので、肝心なやりとりの部分だけ字幕がない、という悲惨な状況(TдT)←珍しく顔文字。理解不能の部分があまりにも多く、見終わらない内に、危うく挫折しそうになった。

 エラン・リクリス監督は1954年生まれでエルサレム出身。数多くのコマーシャルフィルムやドキュメンタリーを製作していく中、長編映画を手がけるようになったという。なお、彼の最新作「Syrian Bride」は、2004年のモントリオール世界映画祭でグランプリを受賞している。
 イスラエル映画については、エイタン・フックス監督の「Yossi & Jagger」と、先日東京フィルメックスで上映した、アモス・ギタイ監督の「プロミスト・ランド」くらいしか見ていないので、かの国の映画事情はよくわからない。ただ、見た映画の3本とも、自国の抱える矛盾や問題点をあえてさらけ出して作品にしようとする、作り手の強烈な意志を感じるものだった。
 「カップ・ファイナル」は、戦争のばかばかしさや残酷さを、かなり直裁に描いた作品と言える。にもかかわらず、重すぎず深刻になりすぎてもいないのは、サッカーという題材をうまく使っているからだろう。サッカーはまさに世界のスポーツなのだな、と思った。球状の蹴るもの(ボール)と、枠囲みのゾーン(ゴール)があればいいから、貧しくてもなんとかなる。しかも、みんなで楽しめる。言葉はいらない。理屈もいらない。戦場で突然出会った敵同士であっても、同じサッカーファンで、贔屓のチームまで一緒なら、友情を感じたってちっともおかしくはないのだ。
 
 この映画に変化球は使われていない。予想したとおりのラストシーンが待ち受けている。だが、それがわかっていながら、いや、わかっているからこそ、やりきれない。
# by terrarossa | 2004-12-15 01:35 | 映画
2004年 12月 05日
「似水柔情」 ~映画「東宮西宮」原作小説について
「似水柔情」 ~映画「東宮西宮」原作小説について_a0021929_9391861.jpg 映画「東宮西宮」は、「似水柔情」という小説をもとに作られた作品である。
 原作小説の作者、王小波は、現代中国の有名な作家で、1997年、45才という若さで亡くなっている。彼の妻、李銀河は社会学者で、80年代の終わりから90年代にかけて、中国の男性同性愛者についての著作をいくつか発表しており、このことが王小波の創作活動に影響を与えたようだ。

 ということで、中国語の原作小説「似水柔情」を辞書首っ引きで、蟻の歩みの如くじりじりと読み進めたのだが、小説と映画とでは、肝心な点が全く違っていた。
 
 小説は、警官・小史が、アラン(阿蘭)が香港から送った郵便物を受け取ったところから始まっている。
 封筒の中身は薄い一冊の本だけ。映画では、彼がアランから本を受け取った後、あの「長い一夜」を迎えるという構成になっていたが、原作では、「あの夜」が終わって一年後に、アランから本が送られてくる。アランが書いたという本の内容は、映画にも出てきた「女賊」の話。そして物語は、小史が送られてきた本をめくりつつ、アランとのことを回想する、という形式で進んでいく。
 原作のアランは年若い警官の小史よりも十歳ほど年長の人物として設定されており、この点も映画とは違う。もし原作を忠実に再現するとしたら、アラン役はレスリー・チャン以外には考えられない(←単なる自分の思いこみである)。ちなみに、実際のレスリーも「東宮西宮」のこの役に興味を示したという記事を見たことがある。
 映画との最大の相違点だが、それは「あの夜」に小史とアランが最終的な肉体交渉を持つに至っている所。そして、そのことによって、小史が自らを同性愛者であると認める点である。
 「相違点」という表現を使ったが、却って映画の後日譚と解釈した方がしっくりくるのかもしれない。なぜなら小史はアランと別れた後になって、アランを愛している自分に気付く、とあるからだ。
 映画では少ししか登場してこなかった「公共汽車(バス)」という女性は、小説では「アランの妻」として、キーパーソンとでも言うべき重要な役割を担っている。アランの最大の不幸は、「公共汽車」を本当に愛してしまったこと。しかし、やがてアランは小史という運命の男と出会ってしまう。小史と肉体関係を結んだ翌朝、帰宅したアランは、「あなたは私を愛していない」と泣く妻に対して、ただ「体液を排泄」するためだけのセックスをする。昨夜小史が自分にしたのと同じように。
 かたや小史は、別れたアランへの想いがつのる一方(肉体関係を結んだ時点では、小史はアランのことを全く愛していなかった。ゆえに、二人は別れてしまう)。アランから届いた郵便物に手紙も何も入っていなかったことに落胆し、小説の内容が「彼らの愛を描いたもの」ではなく「ただの歴史小説」だったことに失望する。
 そしてある夜、勤務中の小史の元へ一人の警官がやって来て、彼の解雇を言い渡す。「同性愛者はこの職務に不適格である」と。派出所を追い出された小史。もう家に帰るつもりはなかったが、かといって行くあてもなく、眼前には夜の闇が果てしなく広がっているばかり……という、映画で胡軍が演じていた人物こそ小史、と刷り込まれていた者にとっては、ある意味衝撃的な結末が待ち受けている。

 原作小説を読んでみてあらためて思ったのは、「東宮西宮」という映画の完成度の高さだった。あえてギリギリのところまで削りに削った作り方をしており、そのストイシズムにこそゾクゾクしたのだが、原作小説の世界が持つ奥行きの深さを知って、また映画の魅力が増したという感じだ。同じでいて、違っていて、面白い!というところか。
 原作小説は、映画を見た人にとって、他にも「おおっ」と思わせるような小ネタが随所にあって楽しめると思う(なんと「ラーメンを食うシーン」は原作にもちゃんとあった!ということは、あれは原作に基づく正しいシーンなのだな)。いや、「楽しめる」ほどの語学力が自分にもあれば……燃える下心(!)で全力疾走しても、いかんせん限界というものが。

 今、手元にあるのは、「時代文芸出版社」出版(中国・長春)の「地久天長-王小波小説劇本集」というタイトルの本だ。これは中国書籍を扱う日本の書店からインターネットを通じて入手した。インターネットって素晴らしい。
 この本には、十編の短編小説と共に小説「似水柔情」と「東宮・西宮」電影劇本(映画の脚本)、そして「東宮・西宮」話劇劇本(舞台劇の台本)が収められている。
 なお、電影劇本および話劇劇本は、張元(映画「東宮西宮」の監督)との合作である、とある(電影劇本は、ざっと読んだところ、完成した映画とはまるで違っていて、撮影中に相当の修正を加えたようである)。
 それにしても、舞台劇の台本が別にあったとは驚きだった。
 既に1998年の映画封切り当時(於日本)、「東宮西宮」は舞台版もあり、警官役は映画同様胡軍が演じ、ヨーロッパで公演を行ったらしい、という噂をウェブ上で目にはしていたものの、真偽がわからぬまま、自分の中で迷宮入りしていたのだった。
 舞台劇版があった、というのは幻じゃなくて本当だったんだと、台本という実物を目の当たりにして、ひしひしと実感した次第である。
 そうとなれば胡軍の生・舞台公演を見てみたかった!という、今となってはどうにもならない願望が募るばかり。
 あー、日本でアンコール公演してくんないかなあ、などと、無理を承知で妄想してみたりする今日この頃である。
「似水柔情」 ~映画「東宮西宮」原作小説について_a0021929_22623100.jpg


←警官がラーメンを食べるのに使っていた容器はこんなんだった。
 ハルビンで購入。
# by terrarossa | 2004-12-05 09:43 | 映画