<   2008年 11月 ( 4 )   > この月の画像一覧
2008年 11月 17日
使わないと退化する
 13年間使った自家用車の具合がいよいよおかしくなり、先日新車を購入した。今のところカーナビはオプションで、費用がかさむということもあって、結局つけなかった。だが近い将来、ほとんどの自動車がカーナビ標準搭載になるのかもしれない。もう自分で調べなくとも、機械の指示通りに運転していけば、その場所に行くことができるのだ。
 能力は使わないとどんどん退化する。必要がなければ発達することもない。こんな風に便利になっていけば、人はその内、地図も読めなくなってしまうだろう。
 既に衰え始めた能力もある。PCの普及・定着によって、自分で字を書く機会は極端に減ってしまった。そしてどうなったかというと、漢字は読めるが書けない、という事態がしばしば発生するようになった。書かないから忘れる。当然の結果だ。これって相当やばいよなあ。
 こうして日々、どんどん退化していく自分を感じる。自分だけじゃないだろう。文明社会に暮らす人間は、確実に動物(生物)としての基本的スキルが低下しつつある。
 昔の人たちは、こんな便利な世の中ではなかったから、持ちうる能力を発達させ、フルに活用させながら日常を生きていた。そうしないと生きていけない状況にあった。視覚も聴覚も嗅覚も、そして身体能力も、そういった必要に応じて研ぎ澄まされていたにちがいない。現代人が見ることのできないものが見え、聞くことのできないものが聞こえ、感じることができないもの--今では超常現象と称されるもの--ですらも感じとることができていたのではないかと思う。
 たかだか車にカーナビをつけなかったからと言って、自身の退化に歯止めをかけられるとは思えない。ささやかな抵抗をこころみたところで、どうなるってんでもないだろうに。

a0021929_443855.jpg
 チンダル現象……かつてはここにも何かが見えていたのだ、きっと。
[PR]
by terrarossa | 2008-11-17 04:06
2008年 11月 15日
曾祖父の足跡をたどる その四
 昼過ぎに大学図書館を出て街に戻り、今度は、学籍簿に載っていた住所の探索にかかる。
 ドイツへ行く前に東京へ遠征して入手したヴュルツブルク市街図と、ヴュルツブルク駅構内の書店で見つけた、ヴュルツブルクの歴史について書かれた日本語のガイドブックが頼りだ。
 名簿に記載されていた学生さんたちの住所をざっと見たところ、現在もほぼ同じ地名が使われているようだが、いったん壊された所に再建しているケースがほとんどだろうから、番地等が以前と同じ場所にあるのかどうかは定かでない。

a0021929_058396.jpg それでも、曾祖父が最初の一年間住んでいた住所と同じ番地を発見。Semmelstrasse9番地(赤矢印)。建物は1948年につくられたもの(あちらでは、建築年が彫られていたり描かれていたりする建物が多い)。
 が、残念ながら残り三年を過ごした住所は見つからなかった。帰国してからも色々調べたが、やっぱりわからなかった。

a0021929_0593683.jpg 旧大学。この塔も戦災に遭い、戦後に再建したという。ここが曾祖父が学んだ大学キャンパスだったのか……

 ヴュルツブルクで最も有名な観光スポット、マリエンベルク要塞に行ってみた。a0021929_1172581.jpga0021929_105234.jpg
 急な坂と果てしなく続く階段を、息を切らしながら登る。第二次大戦中には軍の施設として使われていたため、ここも戦争で完膚無きまでに破壊されたという。中世から近世にかけて、権力者たちがここから睨みをきかせていたというだけあって、眺めは抜群。
a0021929_114897.jpg
 それにしても、眼下に広がるこの街並みが、ほとんど戦後に再建・復元されたものだというから驚くばかりだ。いったん失われてしまった市内の歴史的建造物を全て元通りに修復するために、どれほどの莫大な費用と時間と労力がかかったのだろうか。まったくもってすごいとしか言いようがない。
a0021929_151282.jpg
 
 そういえば昼ご飯がまだだった……て、もう夕方四時過ぎかい。
a0021929_12731.jpg 
カフェで空腹を満たす。ミッションひとまず完了。

[PR]
by terrarossa | 2008-11-15 01:26 | 見聞録
2008年 11月 11日
曾祖父の足跡をたどる その三
 「第二次世界大戦による街の崩壊」というショッキングな事実を初めて知り、期待値と意欲はいちじるしく低下するも気を取り直し、翌々日、再びヴュルツブルクへ向かった。
 曾祖父がドイツへ留学していたという話は、当時のローカル新聞などにいくつか記事が残されていたのだが、なにせ100年以上前のこと、果たして本当にかの国の大学に籍を置いていたのか、それを証明する書類などはなく、まず、その確認をする必要があった。
 前述した森川先生の論文によると、ドイツの大学の多くは、歴代の学籍簿をきちんと保管しているという。となれば、ヴュルツブルク大学の学籍簿が閲覧できれば、何か手がかりがあるかもしれない。
 幸いにもドイツ出発直前、叔父が森川先生とメールでコンタクトをとることができ、「過去に調査した学籍簿の中に曾祖父らしき名前があったと記憶している」との報告をいただいた、という連絡が入る。少なくとも学籍簿は現存しているようだ。ここでようやくぼんやりではあるが、目標が見えてきた気がしたのだった。
  
 とはいえ、ドイツには全くアテもツテもないので、出たとこ勝負でいくしかない。ほとんど博打である。またの名を「無謀」とも言う。事前に大学へメール等で問い合わせするとか色々方法はあったはずだが、なんとかしようと大学のホームページを開いた途端、あふれかえるアルファベットの濁流に飲み込まれ、ヘタレな子孫の泥船はあっさり難破沈没。……だめじゃん。
 てことで、行けばなんとかなるかも……と、ろくに準備もしないくせに、かそけき期待だけは抱きつつ、ヴュルツブルク大学図書館へ。
 なお、現在の大学キャンパスは、市の中心部からバスで二十分ほど行った郊外の高台にある。

a0021929_3361937.jpgカメラのフレームに収まりきらないほどでかい、四階建ての図書館にびびる。

 語学力のなさをカバーするために、事前にたいへん長い時間をかけて作成しておいた問い合わせ文(あやしげな英語ともっとあやしげなドイツ語併記)を受付のお姉さんに見ていただく。あとはうっすら英語とお絵かきとゼスチャー。で、なんとか意図は伝わったようだ。係の人に連れられて、「4階」へ案内される。ここは一般の学生が自由に出入りできないフロアのようだ。

a0021929_337634.jpg閲覧室。年代物の文献が多数おさめられていた。

 出していただいた学籍簿は、数年ごとにまとめて製本されていた。100年以上経っているにもかかわらず、保存状態は大変良い。
 名簿には、学生の氏名、出生地、国籍、専攻、現住所が記載されていた。アルファベット順に並んでおり、順番にたどっていくと……あった!
 確かに、1888年から1892年の名簿には曾祖父の名前が記載されていた。正式にここの大学の学生だったということだ。
 感慨にふけっていると、司書の方が(この人は英語が堪能だった)「この名前の人が関係している文献は、もう一冊ありますよ」と教えてくれた。なんと、学位論文が残っているというのだ。「今ここにはないので、取り寄せは明日になるんだけど、それでもいい?」と訊かれる。ここまで来たからにはなんとしてでもそれを見たい。「もちろんです、あしたもきます!」と返答する。すると、別な職員の方が彼女になにやら話しかけてきた。彼女は「ちょっと待って」と言い、職員同士で打ち合わせ開始。ドイツ語なのでさっぱりわからない。しばらくして「今、持ってこられるかもしれないからここで待ってて」とのお言葉が。さらにその場で待っていると、小さな冊子が手元に届けられた。厚紙の表紙は後からつけたものらしいが、蔵書印が押してあり、間違いなくヴュルツブルク大学図書館の正式な蔵書だった。内容は三十数ページのドイツ語の論文で、タイプ印刷してあり、巻末に手書きの図版が赤の単色刷で添付されていた。学位論文自体は、ドイツから帰国後、曾祖父自身が日本語に訳したものの一部が専門誌に掲載されているのを確認しているが、その原本がこの冊子だということなのか……
 それにしても、街のほとんどが戦災で破壊されつくしたにもかかわらず、戦禍を免れてよくぞ残ってくれたものである。
 学籍簿、論文とも写真撮影は禁止とのことで、該当のページをコピーしてもらう。

a0021929_3373929.jpga0021929_3375258.jpg
学籍簿の表紙とその内容。「バイエルン王立ユリウス・マクシミリアン・ヴュルツブルク大学在籍者一覧」


a0021929_3382890.jpg
曾祖父の学位論文。「卵巣皮膚様嚢腫ノ組織及原因ニ就テ」


 当初はどうなることかと思ったが、結果的には大収穫の図書館訪問だった。
 図書館スタッフの皆さん、突然訪れたあやしいアジア人だったにもかかわらず、親切に対応していただき、ありがとうございました(と、ここで日本語で感謝しても伝わんないよなあ……)。
[PR]
by terrarossa | 2008-11-11 03:50 | 見聞録
2008年 11月 07日
曾祖父の足跡をたどる その二 
 明治期のドイツにおける日本人留学生の動向については、広島修道大学・森川潤教授の書かれた論文で詳しく紹介されており、今回の調査を行うにあたって、たいへん参考になった。
 近代的な西洋医学を普及するにあたって、明治政府はドイツを手本とし、ドイツ人医師を招聘して教育にあたらせたことから、ドイツへ留学した日本人は医学専攻の学生が多かったという。曾祖父が留学していた1888年から1992年は、ドイツへの日本人留学生が急増していた時期で、ヴュルツブルク大学においても、三十人あまりの日本人が在籍していた。ヴュルツブルクは、日本文化をヨーロッパに伝えたシーボルトの故郷であり、ヴュルツブルク大学医学部は彼の出身校だったという関係からか、ヴュルツブルク大学における日本人留学生のほとんどが医学部に籍を置いていたそうだ。

 さて、レバークーゼンへ練習見学に行ったら練習日ではなかった日、スカを食らってさてどうしようということになり、それならばとヴュルツブルクへ向かうことにした。じっくり訪れる前に、ちょろっと下見しようと思ったのだ。こういうとき、乗り降り自由のジャーマンレイルパスは有り難い。
 さあ、120年の歳月を経て、いよいよ子孫がヴュルツブルク入りである。……と、大仰に煽ってはみたものの、ぼんくらな子孫、この時点では、ヴュルツブルクについて、ガイドブックに載っていた以上の知識は全く持ち合わせていなかった(ちゃんと下調べしとけよ)。またしても行き当たりばったりである。

a0021929_0113947.jpg駅に降り立つと、なんだか1960年代風簡素なデザインの駅舎が……あれ?

 ドイツの駅舎というと、

a0021929_0123289.jpgこんなのや(ヴィースバーデン中央駅)、

a0021929_0125731.jpgこんなの(マインツ中央駅)
というイメージがあるので、歴史ある町にしてはやけにあっさりしているなと思いつつ路面電車が行き交う通りを歩く。

a0021929_0132945.jpgやはり町並みはどことなく新しい。

a0021929_014162.jpgレジデンツや教会といった、おそらく歴史的な建築物だとおぼしきものも妙にきれいな感じがする。

 適当にあちこち歩いている内に夕刻になり暗くなってきたので、なんとなく違和感を覚えつつ、この日はいったん引き上げることにした。

 そして、思わぬところで思わぬ情報を得ることになった(だから事前に下調べしておけと)。
 下見を終えて帰る途中の列車、ヴュルツブルクからフランクフルトへ向かう途中のICE車内でのことだった。
 ちょっと話は逸れるが、ドイツのICE2等車の座席は、進行方向に応じて向きを変えることができる構造にはなっておらず、車両の中央を境に対面するようなスタイルで固定されている(昔の東北新幹線は、たしか座席が車両中央で背中合わせになるよう配置されていた)。中央の、ちょうど座席が向かい合わせになっているところには広めのテーブルが設置され、書き物をしたり食事したりするには都合がいい。今回たまたま空いていた席がこのテーブル席で、対面には、パソコンを操作しているおじさんが座っていた(ドイツの長距離列車内では、ノートパソコンを広げて仕事をしている人が大変多い)。テーブル席は、折り紙にも都合がいいのでさっそく店開きしてちまちま作っていたら、向かいのおじさんが声をかけてくれた。実はこの人はレーゲンスブルク大学の化学の教授で、仕事でフランクフルトへ行く途中とのこと。パソコンにはレーゲンスブルクの街の写真がたくさん入っており、スライドショーで観光案内をしていただいた。この先生に、ヴュルツブルク行きのことを話したら、「ああ、ヴュルツブルクは第二次大戦で街がほとんど破壊されちゃったから、歴史的な建物はみんな戦後に修復したものなんだよ」と言われ、ヴュルツブルクでの違和感の原因が一気に判明したのだった(ちなみにレーゲンスブルクは空襲の被害をほとんど受けておらず、古く美しい町並みのまま今に至っているのだという。今度はぜひ訪れてみたい)。
 ヴュルツブルクは、第二次大戦下の空襲によって、街の85%が壊滅状態になったのだそうだ。てことは、曾祖父がいた頃の街は、1945年に消滅してしまったということか……ドイツをはじめとしたヨーロッパでは、百年二百年前の建物が普通に使われているので、120年前そのままの街の面影を探すことについてはかなり期待していたのだが、ヴュルツブルクに関しては、それがほぼ不可能だということが、はからずもここで明らかになったのだ。な、なんてこった……
[PR]
by terrarossa | 2008-11-07 00:36 | 見聞録