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2006年 04月 20日
美しき野獣(2006、韓国)
 地元で見る久々の韓国映画は、昨年の「甘い人生」に続き、これまた韓国ノワールのかほり濃厚な「美しき野獣」。スターが出演してる映画でないと、地方までまんべんなく上映してはくれないので、これらのセレクトも致し方ない、というか。
 いや楽しかった。噂に違わず、この破綻っぷりのアッパレなことよ。「野獣」なのはクォン・サンウだけかと思ってたら!
 危険なアクションをすべてスタント無しで大熱演したというクォン・サンウだったが、最終的にいいところをさらっていったのはユ・ジテ。法廷での熱弁はかっこいかったなあ。てか、そこがあんまりよかったので、その後の結末が結末が。詳細は書かないが……かたい信念はどこいったんだ!あんたいいのかそれで?
 クォン・サンウ演じる刑事のほうは、肉親にまつわるあれこれがわりと描かれているので、「野獣」と化す動機はまあ、わからなくもない。それでも、すぐにキレて暴力に訴えるはちゃめちゃっぷりが極端すぎて、考え無しのおばかさんキャラクターに見えてしまうところが気の毒というか、刑事であること自体の説得力を奪っていると思う(「殺人の追憶」にもそういう暴力刑事が出てきたので、ある程度まではほんとなのかも知れないが)。残念。
 それにしても、見てる間じゅうデジャヴに翻弄されまくった。80~90年代に大量に作られた香港黒社会映画のテイストそのまんまだからだ。そう合点すると、この映画のはちゃめちゃさもすんなり受け入れることができる。その途端、ありえねー!とか、なんだよこの結末はー!というツッコミは、ほめ言葉と化すのだ。「荒唐無稽」とか、初めからわかりきったことは言っちゃいけないんだなあ。
 クォン・サンウ刑事は、言うなれば、若き日のアンディ・ラウ得意とするところの、考えるより行動する、が信条の、深く物事を考えるという思考回路がきれいに抜け落ちているキレた過剰熱血キャラクター。どんどん壊れていくさまは、まるで「蒼き獣たち」の末路のようだ。または「男たちの挽歌」におけるチョウ・ユンファの最期とか。韓国映画は確実に香港映画化している。20年遅れで。
 「甘い人生」よりも濃厚に香港映画的雰囲気が漂っているのは、やはりクォン・サンウとユ・ジテが演じる主役ふたりの関係が、ホモソーシャルな固い絆でむすばれているように描かれているからだろう。最後、クォン・サンウと同化したユ・ジテ、という言い方もできそうな結末を見てしまうと、やはりこのふたりはチョウ・ユンファとティ・ロン、またはチョウ・ユンファとダニー・リーが演じていたような、「厚い友情」と言うだけでは足りない、究極の関係性にまで至っているように思えるのだ。

 それにしても原題「野獣」に、あえて「美しき」とつけ加えた邦題の真意は。ここでのクォン・サンウはワイルドなヨゴレ役だし、ユ・ジテの役も「美しき」って感じとは違うし。ボンドガールは出てこないけど、「007」シリーズのノリかなあ(←古すぎ!)。
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by terrarossa | 2006-04-20 02:26 | 映画
2006年 04月 16日
なつかしくない
 閉店セール中の近所の古本屋で偶然目にして買った萩尾望都の「トーマの心臓」。漫画史に残る名作であるなどということは、ここであえて書くまでもないことだろう。 
 この作品はたしかに十代の頃、読んだはずだった。だが、読み始めてみると、内容についての記憶が全くないということに気付いた。なにひとつ覚えておらず、読み終えても、今回初めて読んだという印象しかなかった。なにか手の届かない、とてもとても難しいことを描いている……この作品と出会った十代のころの自分は、話の内容を記憶するどころか、理解すらまったくできないほどちんぷんかんぷんだったという訳。
 そう、文学や哲学の世界にあこがれつつも、きわめて感受性の低い、鈍感な若人だったというのが自分の実像だった。形而上的なことをあれこれ考えるのはいまも不得手だ。現実のもの、かたちあるものにひきずられる傾向はたぶん、昔から変わっていない。数学や物理が苦手という致命的な欠点がありながら、理科系の進路を選び、現在もそこに身を置いてるのはそのせいだ。
 いまなら少しわかることといえば、この作品はキリスト教的な宗教観にもとづいて描かれている、ということか。これもあまたの書評で既に語り尽くされたことだろうが、この大前提をふまえないと、物語には一歩たりとも立ち入ることができない。
 ところが、最大の難関が入口にどんと立ちはだかっている。それはこの物語の核ともいえる、十三歳の少年、トーマの死の理由である。物語の冒頭で彼は死んでしまうのである。彼は思いを寄せる相手にこっぴどく振られたが、それに絶望して死を選んだのではない、というのだ。この物語自体が、トーマの死をめぐって交錯する少年たちの心のありようを描いているものなので、なぜ彼が死を選んだかという謎はまた、作中の少年たちにとっても謎なのだが。
 いったいどうしてわずか十三歳の少年が、愛の対象に「殉じる」というような境地へ達するに至ったのか。そうなるともう、現世的煩悩まみれの自分にはとうてい及びもつかない形而上ワールドに分け入らねばならない。頭では理解して、表層だけはなぞることができても、それを身近に「感じる」ことはできない。こればっかりは、どうしたって。
 ひとつ救いがあるとすれば、一部始終を冷静な視点で見ていた、盗癖のある冴えない少年、レドヴィの存在だ。形而上的な苦悩どころではない位置にいる彼が、皮肉なことに全部「わかって」いる。作中での扱いはごく小さいものとなっているが、最もリアルに感じられたのが、彼の立ち位置だった。
 この作品はまた、竹宮恵子の「風と木の詩」とともに、耽美的同性愛を描いた古典的な漫画としての位置づけもされている。なるほど、「トーマの心臓」は、確かに少年どうしの愛を描いている。しかし、彼らの愛はあくまでも精神的愛であり、性的・肉体的愛の部分は、意図的に欠落したものとなっている。同性間の性行為は、人の尊厳を貶めるための、暴力の手段としてしか登場しない。これには、十三歳から十五歳といった登場人物たちの年齢の若さも関係しているものと思われるが、いずれにせよ、この作品を、いわゆる同性愛漫画とカテゴライズするには、少し違和感があるように思う。

 その身を捧げた少年の愛に向き合おうと、神学校への道をえらんだユリスモールは、どう成長していったのか?一方で肉体的な愛の行為がどんなものであるのか、はからずも知ることになり、深く傷ついた彼だから、その後たどった道も葛藤に満ちたものであったかもしれない。なんとなく、ライナス・ローチ主演の映画「司祭」を思い浮かべてしまう。
 ということで、「トーマの心臓」は、「なつかしいなあ」と思って手に取ったところが、少しもなつかしいものなんかではなかったのだ。「文学少女」な同級生たちと、いまひとつ話が合わなかった理由を、今になってかみしめることになるとは。
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by terrarossa | 2006-04-16 00:49 |