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2006年 03月 14日
ジェームズ・ボールドウィン再読
 自分にとってジェームズ・ボールドウィンの小説は、(あえてこっぱずかしい言い方をすれば)青春の書、とでもいうべきものかもしれない。
 現在たいへん話題になっている映画、「ブロークバック・マウンテン」を見、原作小説を読んだとき、ふと思い浮かんだのが、十代の終わりの頃読んだ、「ジョヴァンニの部屋」だった。

 「ジョヴァンニの部屋」は、パリに住む異邦人、アメリカ人デイヴィッドと、イタリア人ジョヴァンニの物語だ。デイヴィッドは、ヘラという恋人がありながら、彼女の旅行中に、イタリア人のウェイター、ジョヴァンニと、はからずも恋に落ちてしまう。デイヴィッドと肉体関係をむすんだジョヴァンニは、いちずに彼を愛していく。が、その一方で、デイヴィッドの方はどうも歯切れが悪い。デイヴィッドには、少年時代にジョーイという男の子と「はずみ」で肉体関係を持ってしまったことがあった。しかし彼は、その衝動、その感情を「あってはならない偶然」とし、心の奥底へ押し込めていたのだった。
 自分が本当に求めているものを強く否定し、それを完全に払拭するために、彼は周囲にいる同性愛者の男たちを軽蔑し、卑下することで、自分のアイデンティティを守ろうとした。自分には女性の恋人がいるし、こんな関係は相手が強引に迫ったからだ……ジョヴァンニに強く惹かれながらも、デイヴィッドは彼への執着を断ち切ろうと躍起になる。
 そんな不安定で矛盾に満ちた関係が未来永劫続くはずもなく、物語は一気に悲劇的な方向へ転落していく。

 つまりは、同性と肉体的行為を伴った恋愛関係にありながら、それを頑として認めようとしない男の、閉塞感に満ちた回想物語なのだ。はじめてこの作品を知った頃の、今よりももっとコドモで単純だった自分は、「ゆるしがたい男だ」と烈火のごとき怒りにかられたものだった。が、これは今のパリとはいろんな意味で状況が異なり、社会的な抑圧が想像もつかないほど大きかったはずの、1950年代の話であったことに気付く。物語の雰囲気がぜんぜん古びた感じではないので、つい現代の話と錯覚していたのだ(今だって本質的なところではなにも変わってないかもしれないが)。
 時代はどうあれ、あまりにもむごいジョヴァンニの人生を考えると、やりきれなさでいっぱいになることに変わりはない。

 「ジョヴァンニの部屋」は、とりわけ文章の美しさが際だつ小説でもある。原作の文体もそうなのだろうけれど、滔々と流れる、詩のように美しい翻訳文には、心から酔いしれてしまった。
 いっぽう、様々な人種の、様々な立場の人間たちが交錯しながら複雑に展開する小説「もう一つの国」は、どうも日本語訳された文の感じがしっくりこなくて、しじゅう違和感をおぼえながら読むはめになった。同じ作家でも、別作品で、しかも翻訳者が異なると、全く違った雰囲気になってしまうのだということを実感した。
 ところが最近、あらためて「もう一つの国」を読み返してみたら、二十代の頃と全く違った印象を受けたので、自分でもちょっと驚いた。年を経て、あの頃わからなかった、というか、わからないこと自体、気付かなかったものが、クリアに見えてきたせいなのかもしれない。少々荒っぽい翻訳も、「ジョヴァンニの部屋」よりもかなり猥雑な世界を描いていることを思えば、これはこれで合っているのかな、と感じたところだ。

 ボールドウィンの著作のうち、「ジョヴァンニの部屋」は「白水Uブックス」シリーズで入手できるが、他の本は、軒並み絶版のようで残念。図書館か古書店で地道に探すしかないようだ。
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by terrarossa | 2006-03-14 23:20 |
2006年 03月 14日
「葬儀」(ジャン・ジュネ・著、生田耕作・訳 河出文庫)
 ジャン・ジュネの本を読んだのは、ものすごく久しぶりだった。
 がっつり重くてくどくて難解で、げっそり疲れることうけあいの、体力勝負の読書になることははじめからわかっていたが、やっぱり一気に読んでしまった。

 1980年代後半は、「泥棒日記」はもちろんのこと、「花のノートルダム」も「薔薇の奇蹟」もちょっと古本屋巡りをすれば容易に入手できた最後の時代だったように思う。立て続けに三冊読んで、あまりにも生真面目でパラノイアックな描写に、しばらく頭の中に毒が回ったような状態になった。とりわけ「泥棒日記」には、かなり入れ込んでいた。物語の舞台はヨーロッパ各地で、フランスばかりじゃないというのに、そんなことはいつのまにかどっかへすっとんで、「フランス」は美少年とちんぴらとアニキたちと警官以外は存在しない、めくるめく世界なのだと錯覚。一時期、まちがったフランスかぶれに陥っていたくらいである。

 で、よもやそこから20年ちかくも経って、未読だった「葬儀」に出会えるとは。
 「ブレストの乱暴者」とともに、2003年に河出文庫で復刊していたことをずっと知らないでいた。ここ十年ほど、日本十進分類法9類(いわゆる「文学」)の世界からはすっかり遠ざかっていたからだ。書店で偶然目にしなきゃ気付かないままだった。

 舞台は第二次大戦中、ナチス・ドイツ占領下のパリ。精液と排泄物の匂いたつ、男性器および肛門周辺の執拗な肉体描写が、終わりのない悪夢のように展開してゆく。軍人、死刑執行人、レジスタンスの闘士、少年兵……ジャン・ジュネの妄想あるいは現実のなかで語られる男たちは、すべからく「さかって」いる。視線がぶつかりあうだけで欲情をおぼえ、陰茎は硬くそそり立つ。何かに駆り立てられるように愛を交わす。抱き合い、舐め合い、突っ込み、突っ込まれ、射精する。人称は自由に行きつ戻りつし、他者として外側から見ていた対象が、いつのまにかおのれ自身となったりもする。
 それにしても、互いの肉体を貪るように求め合う彼らの、ひどく強迫的ともいえる「せっぱつまった感」はいったいなんなのだろう。
 彼らは程度の差こそあれ、死はとても近しい位置にある。今この瞬間を生きるだけで、心理的にも肉体的にも未来のことなど考える余裕はない。性の快楽・あるいは苦痛に耽溺し、いっとき現実から、おのれから逃れることで、生と死の境界線上で生きることに折り合いをつけているのか。あるいは他人の肉体を感じることで、つかの間孤独を忘れるために?
 もう明日がないかもしれないならば、なにもかえりみるものはない。あふれる欲望を抑えつける必要はまったくない。そういうことだろうか。 

 とりわけ終盤、ドイツ占領軍に対して起きたパリ蜂起の中、追いつめられ死を前にしたドイツ兵と対独協力兵のフランス人少年が激しく愛し合う場面は「圧巻」のひとこと。この残酷で、そしてたまらなく美しい一節だけでも読む価値はあると思う。
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by terrarossa | 2006-03-14 22:45 |