カテゴリ:本( 5 )
2010年 04月 18日
軟弱本読み、脳内祭りに踊る
 図書館や本屋だったら一日中入り浸っていられるし、その状態を幸せだと感じるくらいには本が好きだ。同じように漫画も好きだ。それでも、読書が趣味というほどたいした冊数は読んでいない、と思う。近頃話題の本など、そういえば全く知らない。本を読むこと以外に関心事があると、その時の気分次第で全く読まない時期が続いたりもする。

 久々の「読書の大波」は意外なところからやってきた。
 ここしばらくは「アメリカもの」の本を読む機会が続いていたのだが、そういう状況で、いきなり「脳内バルカン祭り」開始。そのきっかけは、もう後戻りできないところまで「沈没」してしまった、サッカーである。
 欧州サッカーに嵌れども、欧州はあまりに遠し、という状況で悶々としていたところ、日本の名古屋グランパスにドラガン・ストイコビッチ監督が就任したのである。以前ブルガリアを旅行して以来、なにか訳のわからぬモヤモヤをずっと抱え込んでいたことも相まって、一気に関心は時代と国家に翻弄された名選手とその背景に向かったのだった。
 もちろん、関連図書を数冊読んだくらいで、あのあたりの複雑な事情などわかろうはずもない。が、読むほどに知りたくなる。特にイスラム教、旧共産圏……自分が関心を持ち続けていたものが有機的につながっていく実感がたまらない。脳内ドーパミン出まくりってこのことか。不謹慎を承知で言うならバルカン萌えとも……そう、実生活と世界情勢にはなんの役にも立たぬ自己完結型妄想状態。重症である。

 競技人口世界一とも言われるサッカーである。当然ながらフォローする範囲はどんどん広がっていき、ここにきて「脳内旧ソ連邦祭り」が一気に加速。
 もともと、かの地域への関心は、長いこと通奏低音のように続いてきた。およそ30年の昔、まだ「鉄のカーテンの向こうにある国」である時代、雑音混じりのラジオから聞こえてきた日本語の「モスクワ放送」を偶然耳にした時が、全ての始まりだった。長じて、ソ連邦が崩壊し、一般シロート外国人にも門戸が開かれて以来、実際に数度にわたってロシアを訪問した。今回は、そこに「サッカー」というキーワードが加わった。そして脳内ワールドは一気に拡大した。サッカーをテーマとした、あるいはサッカーのことに触れている本は非常に多い。これまで全くそういう視点を持ち合わせていなかったので、それぞれバラバラなアプローチをしている本の内容が、実は一つの競技でつながっていることもあるのだという「発見」が面白くて仕方がない。なんとか時間をやりくりして、もうちょっと色々関連の本を読んでみよう、そうしよう。

 バルカン、旧ソ連邦、ときてフットボールとなれば、日本だったら木村元彦氏・宇都宮徹壱氏の著書だろう。全部とまではいかないが、手に入れられるものは購入し、たいへん楽しく刺激的な読書の時間を過ごすことができた。が、この両氏の本はその筋ではあまりにも有名なので、ここではあえて、あまり有名ではない、しかし面白かった本にも触れてみたい。

中・ロ国境4000キロ
岩下 明裕 (著)

 ユーラシア研究の第一人者である著者が自ら赴いた4000キロ。がっつり読みごたえある、ハードな内容の学術書。

中・ロ国境の旅―「4000キロ」の舞台裏 (ユーラシア・ブックレット)
岩下 明裕 (著)

 旧ソ連邦諸国の研究、情報などを多面的に紹介している「ユーラシア・ブックレット」シリーズの小冊子。
上記の「中・ロ国境4000キロ」のメイキングともいえる、こちらは「旅行記」。二冊合わせて読んで、ようやく形が見えてきた感じ(とほほ)。ロシア極東や中・ロ国境を訪れた時のことを思い出しつつ読んだら、また行きたくなってしまった!

ロシア・サッカー物語 (ユーラシア・ブックレット)
大平 陽一(著)
 
 その「ユーラシア・ブックレット」から、サッカーをテーマとした一冊。
 ロシアサッカーの歴史に関するコラム集。政治とサッカー、クラブの成り立ち、選手や関係者の逸話など、60ページあまりとコンパクトながら、ロシアサッカー入門編として楽しく読める。

ディナモ―ナチスに消されたフットボーラー
アンディ・ドゥーガン (著)

 第二次世界大戦とサッカー。副題に「ナチスに消されたフットボーラー」とあるが、背景のあまりの複雑さに打ちのめされる。事実が真実であるとは限らないのだ。

ブンデスリーガ―ドイツサッカーの軌跡
ウルリッヒ ヘッセ・リヒテンベルガー(著)

 では、ドイツサッカーはどうだったかということで。
 タイトル通り、ドイツサッカーの軌跡。あまりにも濃いい一冊。重厚すぎて、とても一度では消化しきれねぇ(苦しいが楽しい)。こういう本は、知ってる選手や関係者が多いほど楽しめるんだろうなあ。もっと学んでからまた読もう。

ディナモ・フットボール―国家権力とロシア・東欧のサッカー
宇都宮 徹壱(著)

 ソビエトとドイツとディナモが出たところでこの本。旧共産圏諸国に存在するフットボールクラブ「ディナモ」。かつて国家権力と密接な関係があったそれらのクラブ「ディナモ」は、社会主義崩壊によって現在、どのような状況にあるのか。著者はそれらの地域に赴き、「ディナモ」の現在を確認してゆく。

 サッカー関連の四冊はテーマ上、内容は少しずつ被っているのだが、その被っているところの解釈が微妙に異なっていて、ちょっと混乱する。そう、ノンフィクションはこういうことがあるので、一冊だけじゃ恐い。できることなら同じテーマを扱った複数の著者のものを読むべきってことか……
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by terrarossa | 2010-04-18 22:48 |
2009年 08月 23日
「荒野へ」(ジョン・クラカワー・著、佐宗鈴夫・訳 集英社文庫) 
 一年ほど前、ショーン・ペン監督の映画「イントゥ・ザ・ワイルド」が日本でロードショー公開された。が、現在居住する地域の映画館では当然のようにスルーされ、結局見逃してしまった。
 この映画の原作となった、ジョン・クラカワーの「荒野へ」という本には覚えがあった。新刊が発売された当時、書店でハードカバーの本が平積みになっていたからだ。たいそう話題になっていたらしいその本だったが、結局買うこともなく、どっかでかすかにひっかかったまま、およそ十年が経過した。
 最近、映画のDVDが発売されたのをきっかけに、あの時買わなかった本がどうしても読みたくなり、映画化とともに再版されていた文庫本を購入した。

 本書は、著者ジョン・クラカワーが自らの人生と重ね合わせて進行するスタイルの、かなり主観的なドキュメンタリーとなっている。
 クリス・マッカンドレスは頭脳明晰で、順風満帆な人生を送る才覚に恵まれた、前途ある若者だった。優秀すぎるがゆえに、他人には見えないことまでが見え、察することができないことを察していた。家族の秘密を知ってうちのめされ、だからこそ自らはよりきびしく清廉であろうとした。かといって人との関わりを避けることはなく、放浪の最中に沢山の人と出会い、出会った人々全てに強い印象を残している。だが、彼の内側にまで入り込むことができ、その思いを共有できる者は誰もいなかった。それから彼は人間のいない土地、アラスカの荒野へと向かった。それは必然だったし、ほかに選択肢はなかった。ただし、その衝動は絶望からではなく、希望をいだいてのものだったのだろう。結局は、荒野から生きて戻ることはできなかったけれども……

 そういえば、劇場公開時に見た映画と、うっかり見落としてしまった映画がきっかけで読んだ本が、「ブロークバック・マウンテン」、「わが母なる暗黒」、「ブラック・ダリアの真実」、「血と暴力の国」、「冷血」、そして「荒野へ」と、アメリカを題材にしたものが続いていた。もっとも、それらの作品をこれまで「アメリカ」というくくりで意識したことはなかった。
 アメリカという国に関しては、日本のメディアの中では最も身近な外国であり、様々な分野のニュースやドキュメンタリーやドラマを見ることができ、関連の出版物等も極めて多い。さしたる興味や関心がなくとも、情報は入ってくる。が、実は自分はなんにもわかっていない……映画に関連して読んだ本を並べてみて、恥ずかしながら、ここにきてようやく気付いたのだった。
 日本と圧倒的に異なる物理的背景は、なんといっても国土の広さと、自然環境の厳しさだろう。この手強い環境に立ち向かい、より良き生活の場へと開拓していった延長線上に今のアメリカが存在する。「自由の国」を標榜し、あらゆる地域から人を受け入れる寛容さを持つ一方、それによって形成されるコミュニティーは排他的で、時には暴力的に余所者を排除しにかかる。それでも、広大な土地にはアウトローを受け入れるだけの懐の深さがある。「荒野へ」のクリス・マッカンドレスがたどった人生は、まさにその背景があってこそなのだと思う。
(アウトローと言えば、米ドラマ「スーパーナチュラル」と英ドラマ「トーチウッド」、どちらも人外・エイリアン・心霊とネタ的には極めて近いものを扱っているのに、全くテイストが異なっている。そもそもの設定が違うんだから当たり前と言えばそうだが、少なくとも「スーパーナチュラル」の兄弟のようなアウトロー的活動手法は、アメリカならではのものであって、英国や日本が舞台では物語が成立しない気がする。)

 ところで、「荒野へ」の中で、非常に気になった点が一つ。 
 後半に、ヘディサルム・マッケンジイ(Hedysarum mackenzii)と、ヘディサルム・アルピヌム(Hedysarum alpinum)というマメ科の植物が出てくる。H・マッケンジイについては、「ワイルド・スイートピー」、H・アルピヌムは「アメリカホドイモ」と訳されている。だが、日本で「アメリカホドイモ」というと、学名はApios americanaであり、Hedysarum(イワオウギ属)とは全く別属の植物なのだ。和名の「アメリカホドイモ」は、一般には属名の「アピオス」の名称で普及しており、主に自家用や直売所向けの新しいイモ類として、全国各地で栽培されている。しかもこの「アメリカホドイモ」は、文中にあるような「ニンジンのような植物の根」などではない。ちなみにH・アルピヌムの英名は「Eskimo Potato」とのこと。
 これらの植物については、物語の核心に関わる重要なポイントなだけに、この誤訳は非常にマズイと思うのだが、これだけ版を重ねて文庫化しても、それについて言及した記述等を見たことがない。多少なりとも植物や農作物に興味ある人なら、すぐに「ヘンだ」と気付くはずなんだけどなあ……

a0021929_3361278.jpgApios americana(アメリカホドイモ)」の花。地元の菜園で。親指大の小さなイモが数珠繋ぎにできるために取り残しやすく、年々勝手に広がって、半ば野生化しているところも。

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by terrarossa | 2009-08-23 03:53 |
2006年 04月 16日
なつかしくない
 閉店セール中の近所の古本屋で偶然目にして買った萩尾望都の「トーマの心臓」。漫画史に残る名作であるなどということは、ここであえて書くまでもないことだろう。 
 この作品はたしかに十代の頃、読んだはずだった。だが、読み始めてみると、内容についての記憶が全くないということに気付いた。なにひとつ覚えておらず、読み終えても、今回初めて読んだという印象しかなかった。なにか手の届かない、とてもとても難しいことを描いている……この作品と出会った十代のころの自分は、話の内容を記憶するどころか、理解すらまったくできないほどちんぷんかんぷんだったという訳。
 そう、文学や哲学の世界にあこがれつつも、きわめて感受性の低い、鈍感な若人だったというのが自分の実像だった。形而上的なことをあれこれ考えるのはいまも不得手だ。現実のもの、かたちあるものにひきずられる傾向はたぶん、昔から変わっていない。数学や物理が苦手という致命的な欠点がありながら、理科系の進路を選び、現在もそこに身を置いてるのはそのせいだ。
 いまなら少しわかることといえば、この作品はキリスト教的な宗教観にもとづいて描かれている、ということか。これもあまたの書評で既に語り尽くされたことだろうが、この大前提をふまえないと、物語には一歩たりとも立ち入ることができない。
 ところが、最大の難関が入口にどんと立ちはだかっている。それはこの物語の核ともいえる、十三歳の少年、トーマの死の理由である。物語の冒頭で彼は死んでしまうのである。彼は思いを寄せる相手にこっぴどく振られたが、それに絶望して死を選んだのではない、というのだ。この物語自体が、トーマの死をめぐって交錯する少年たちの心のありようを描いているものなので、なぜ彼が死を選んだかという謎はまた、作中の少年たちにとっても謎なのだが。
 いったいどうしてわずか十三歳の少年が、愛の対象に「殉じる」というような境地へ達するに至ったのか。そうなるともう、現世的煩悩まみれの自分にはとうてい及びもつかない形而上ワールドに分け入らねばならない。頭では理解して、表層だけはなぞることができても、それを身近に「感じる」ことはできない。こればっかりは、どうしたって。
 ひとつ救いがあるとすれば、一部始終を冷静な視点で見ていた、盗癖のある冴えない少年、レドヴィの存在だ。形而上的な苦悩どころではない位置にいる彼が、皮肉なことに全部「わかって」いる。作中での扱いはごく小さいものとなっているが、最もリアルに感じられたのが、彼の立ち位置だった。
 この作品はまた、竹宮恵子の「風と木の詩」とともに、耽美的同性愛を描いた古典的な漫画としての位置づけもされている。なるほど、「トーマの心臓」は、確かに少年どうしの愛を描いている。しかし、彼らの愛はあくまでも精神的愛であり、性的・肉体的愛の部分は、意図的に欠落したものとなっている。同性間の性行為は、人の尊厳を貶めるための、暴力の手段としてしか登場しない。これには、十三歳から十五歳といった登場人物たちの年齢の若さも関係しているものと思われるが、いずれにせよ、この作品を、いわゆる同性愛漫画とカテゴライズするには、少し違和感があるように思う。

 その身を捧げた少年の愛に向き合おうと、神学校への道をえらんだユリスモールは、どう成長していったのか?一方で肉体的な愛の行為がどんなものであるのか、はからずも知ることになり、深く傷ついた彼だから、その後たどった道も葛藤に満ちたものであったかもしれない。なんとなく、ライナス・ローチ主演の映画「司祭」を思い浮かべてしまう。
 ということで、「トーマの心臓」は、「なつかしいなあ」と思って手に取ったところが、少しもなつかしいものなんかではなかったのだ。「文学少女」な同級生たちと、いまひとつ話が合わなかった理由を、今になってかみしめることになるとは。
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by terrarossa | 2006-04-16 00:49 |
2006年 03月 14日
ジェームズ・ボールドウィン再読
 自分にとってジェームズ・ボールドウィンの小説は、(あえてこっぱずかしい言い方をすれば)青春の書、とでもいうべきものかもしれない。
 現在たいへん話題になっている映画、「ブロークバック・マウンテン」を見、原作小説を読んだとき、ふと思い浮かんだのが、十代の終わりの頃読んだ、「ジョヴァンニの部屋」だった。

 「ジョヴァンニの部屋」は、パリに住む異邦人、アメリカ人デイヴィッドと、イタリア人ジョヴァンニの物語だ。デイヴィッドは、ヘラという恋人がありながら、彼女の旅行中に、イタリア人のウェイター、ジョヴァンニと、はからずも恋に落ちてしまう。デイヴィッドと肉体関係をむすんだジョヴァンニは、いちずに彼を愛していく。が、その一方で、デイヴィッドの方はどうも歯切れが悪い。デイヴィッドには、少年時代にジョーイという男の子と「はずみ」で肉体関係を持ってしまったことがあった。しかし彼は、その衝動、その感情を「あってはならない偶然」とし、心の奥底へ押し込めていたのだった。
 自分が本当に求めているものを強く否定し、それを完全に払拭するために、彼は周囲にいる同性愛者の男たちを軽蔑し、卑下することで、自分のアイデンティティを守ろうとした。自分には女性の恋人がいるし、こんな関係は相手が強引に迫ったからだ……ジョヴァンニに強く惹かれながらも、デイヴィッドは彼への執着を断ち切ろうと躍起になる。
 そんな不安定で矛盾に満ちた関係が未来永劫続くはずもなく、物語は一気に悲劇的な方向へ転落していく。

 つまりは、同性と肉体的行為を伴った恋愛関係にありながら、それを頑として認めようとしない男の、閉塞感に満ちた回想物語なのだ。はじめてこの作品を知った頃の、今よりももっとコドモで単純だった自分は、「ゆるしがたい男だ」と烈火のごとき怒りにかられたものだった。が、これは今のパリとはいろんな意味で状況が異なり、社会的な抑圧が想像もつかないほど大きかったはずの、1950年代の話であったことに気付く。物語の雰囲気がぜんぜん古びた感じではないので、つい現代の話と錯覚していたのだ(今だって本質的なところではなにも変わってないかもしれないが)。
 時代はどうあれ、あまりにもむごいジョヴァンニの人生を考えると、やりきれなさでいっぱいになることに変わりはない。

 「ジョヴァンニの部屋」は、とりわけ文章の美しさが際だつ小説でもある。原作の文体もそうなのだろうけれど、滔々と流れる、詩のように美しい翻訳文には、心から酔いしれてしまった。
 いっぽう、様々な人種の、様々な立場の人間たちが交錯しながら複雑に展開する小説「もう一つの国」は、どうも日本語訳された文の感じがしっくりこなくて、しじゅう違和感をおぼえながら読むはめになった。同じ作家でも、別作品で、しかも翻訳者が異なると、全く違った雰囲気になってしまうのだということを実感した。
 ところが最近、あらためて「もう一つの国」を読み返してみたら、二十代の頃と全く違った印象を受けたので、自分でもちょっと驚いた。年を経て、あの頃わからなかった、というか、わからないこと自体、気付かなかったものが、クリアに見えてきたせいなのかもしれない。少々荒っぽい翻訳も、「ジョヴァンニの部屋」よりもかなり猥雑な世界を描いていることを思えば、これはこれで合っているのかな、と感じたところだ。

 ボールドウィンの著作のうち、「ジョヴァンニの部屋」は「白水Uブックス」シリーズで入手できるが、他の本は、軒並み絶版のようで残念。図書館か古書店で地道に探すしかないようだ。
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by terrarossa | 2006-03-14 23:20 |
2006年 03月 14日
「葬儀」(ジャン・ジュネ・著、生田耕作・訳 河出文庫)
 ジャン・ジュネの本を読んだのは、ものすごく久しぶりだった。
 がっつり重くてくどくて難解で、げっそり疲れることうけあいの、体力勝負の読書になることははじめからわかっていたが、やっぱり一気に読んでしまった。

 1980年代後半は、「泥棒日記」はもちろんのこと、「花のノートルダム」も「薔薇の奇蹟」もちょっと古本屋巡りをすれば容易に入手できた最後の時代だったように思う。立て続けに三冊読んで、あまりにも生真面目でパラノイアックな描写に、しばらく頭の中に毒が回ったような状態になった。とりわけ「泥棒日記」には、かなり入れ込んでいた。物語の舞台はヨーロッパ各地で、フランスばかりじゃないというのに、そんなことはいつのまにかどっかへすっとんで、「フランス」は美少年とちんぴらとアニキたちと警官以外は存在しない、めくるめく世界なのだと錯覚。一時期、まちがったフランスかぶれに陥っていたくらいである。

 で、よもやそこから20年ちかくも経って、未読だった「葬儀」に出会えるとは。
 「ブレストの乱暴者」とともに、2003年に河出文庫で復刊していたことをずっと知らないでいた。ここ十年ほど、日本十進分類法9類(いわゆる「文学」)の世界からはすっかり遠ざかっていたからだ。書店で偶然目にしなきゃ気付かないままだった。

 舞台は第二次大戦中、ナチス・ドイツ占領下のパリ。精液と排泄物の匂いたつ、男性器および肛門周辺の執拗な肉体描写が、終わりのない悪夢のように展開してゆく。軍人、死刑執行人、レジスタンスの闘士、少年兵……ジャン・ジュネの妄想あるいは現実のなかで語られる男たちは、すべからく「さかって」いる。視線がぶつかりあうだけで欲情をおぼえ、陰茎は硬くそそり立つ。何かに駆り立てられるように愛を交わす。抱き合い、舐め合い、突っ込み、突っ込まれ、射精する。人称は自由に行きつ戻りつし、他者として外側から見ていた対象が、いつのまにかおのれ自身となったりもする。
 それにしても、互いの肉体を貪るように求め合う彼らの、ひどく強迫的ともいえる「せっぱつまった感」はいったいなんなのだろう。
 彼らは程度の差こそあれ、死はとても近しい位置にある。今この瞬間を生きるだけで、心理的にも肉体的にも未来のことなど考える余裕はない。性の快楽・あるいは苦痛に耽溺し、いっとき現実から、おのれから逃れることで、生と死の境界線上で生きることに折り合いをつけているのか。あるいは他人の肉体を感じることで、つかの間孤独を忘れるために?
 もう明日がないかもしれないならば、なにもかえりみるものはない。あふれる欲望を抑えつける必要はまったくない。そういうことだろうか。 

 とりわけ終盤、ドイツ占領軍に対して起きたパリ蜂起の中、追いつめられ死を前にしたドイツ兵と対独協力兵のフランス人少年が激しく愛し合う場面は「圧巻」のひとこと。この残酷で、そしてたまらなく美しい一節だけでも読む価値はあると思う。
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by terrarossa | 2006-03-14 22:45 |