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2009年 02月 28日
アラブ・ポップはドドンパドン
a0021929_2451863.jpg 二年前に現在の職場に転勤して以来、通勤時間は往復で二時間弱、業務での運転を含めると、一日の走行距離が200㎞を超える日なんかもしばしば発生するようになった。最初の内は長時間の運転にくたびれ果ててうんざりだったが、さすがに二年も経過すると少し慣れてきて(しかしすっかり腰痛が定着してしまった……)、運転中に音楽を楽しむ余裕も出てきた。ということで今、通勤途上の車内で、「ひとりアラブ音楽まつり」を大々的に開催中である。三年前の「ひとりアラブ映画まつり」に続く、久々の脳内ビッグイベントである。
 アラビアン・ポップスとの邂逅は、さかのぼること二十年の昔、ノイズやフェージングと格闘しつつ受信に成功した、クウェートやヨルダン、アラブ首長国連邦のラジオ番組でだった。「これはいったいなんなんだ!?」というカルチャーショックとともに多くの疑問がわきおこりはしたものの、その世界ははるかに遠く、当時はそれ以上深く突っ込む機会も術もなく、保留状態のまま歳月が流れていたのであった。
 そして現在。いやほんっとーにインターネットってすばらしい。CDを入手し、ネット映像を閲覧し、めくるめくアラブ音楽の世界にどっぷり大ハマリの今日この頃なのである。
 アラブの流行音楽は、全力直球勝負。変化球無し。熱く、そしてギンギンに濃い。サウンドもさることながら、アーティストの外観も同様である。わかりやすい。女性アーティストはセクシーダイナマイトなゴージャス美女、男性アーティストはエネルギッシュでガチムチ体型……なぜかメタボ気味の人が多いような……
 温帯在住で農耕民族の日本人には、アラブ・ポップの暑苦しさとくどさに胸焼けし、いっぱいいっぱいだと思う人のほうが多いかもしれないが、逆に向こうの人が現在流行中のJ-POPを聴いたら、難解なうえに薄すぎて、さぞかし物足りないと感じるんじゃなかろうか。気象条件および住む人の面構えや食生活は、その地で好まれる音楽の傾向と無関係ではないだろう。てか、むしろ強い相関があるに違いない。
 ヒットチャートにのぼるような今どきのアラブ・ポップのサウンドは、欧米圏のそれに近い感じもするが、リズムが決定的に違う。リズムが「ドドンパドン」もしくは「チャカポコチャカポコ」である確率が非常に高いのだ。一聴して「お、洋楽っぽいじゃん」と油断していると、その背後にはチャカポコが潜んでいたりする。さらに、たとえ「ポップミュージック」であったとしても、コブシを利かせるのが定番の唱法のようで、そうなるともうポップスではなく、演歌のように聞こえてくる。日本の演歌を好きになる中東の人はたくさんいる、という話は本当のことだろう。

 以下、著作権の問題というのは常にあるだろうけれど、未知の音楽世界を知るためには必要不可欠な動画投稿サイトより。

 エジプト大衆歌謡のスーパースター、ハキームのナンバーを二曲。常に上げ上げハイテンションで音楽活動に励んでいるとおぼしき彼のミュージックビデオ視聴には、相当の体力と気力が必要……かもしれない。

Hakim: El Salamo Alikum
 パワフルなおっちゃん、ハキームの真骨頂、ドドンパドンなアラブ・ポップ。マサラムービーのごとき、エンタテイメントあふれるビデオクリップがとにかくすんばらしい。

Hakim feat. James Brown: LELA
 なんと、ファンクの帝王、ジェームス・ブラウンとの競演も果たしている。脳天を突き抜けるようなハイトーンボイスがこの人の持ち味ということらしいが、いわゆるクリアな高音ではない。ざらつきながらぐいぐい伸びていくのだ。すっこーんとは抜けずに、一緒に根こそぎ持ってかれる。そこがたまらない魅力。

Ahmed El Sherif: Sahran Maak El Leila
 レバノンのちょっぴりメタボなさわやかアニキ、アーメッド・エル・シェリーフのご機嫌なナンバー。ラテンとアラブ、違うようでいて実は非常に近いのだということを力ずくで納得させられた一曲。でもビデオクリップ中の踊りは、あくまでもベリーダンス風。近年のアラブ音楽は、「こってこて」とは一線を画し、欧米圏のロックやファンク、フラメンコの要素を取り入れることも盛んなようだ。
 で、この人は、多分「アイドル」という位置づけをされている、と思う。
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by terrarossa | 2009-02-28 03:07 | 音楽 | Comments(6)
2006年 11月 07日
西海岸系?
西海岸系。
 ……そんなおおざっぱな分け方があるかどうかはわからないが、ここ最近ヘビーローテーションしているのは、アメリカ西海岸出身バンドのフーバスタンクだ。すでに2001年のメジャーデビュー・アルバムから、新世代ラウドロックバンドとして話題となり、2003年に発売された「The Reason」では、シングルカットされたタイトルチューンのバラードだけでなく、アルバムも大ヒットしている。
 最新アルバム「Every Man for Himself」(日本盤タイトルは「欲望」)は特に素敵だ。心踊るサウンド、五感に訴えかけてくるビート。もう、冒頭の現役米軍軍曹の訓示に続く「Born to Lead」から、一挙に心奪われてしまった。いろんな人が評価しているとおり、以前のアルバムから比べると、ひたむきで激しい路線から、より内省的な方向にシフトしている。もとより単にラウドロックと分類するのをためらうほどナイーブな側面を持つ彼らの音楽だが、なんというか、同じ「熱さ」でも、ガンガン燃えさかる「炎」から、湿度を伴った「蒸気」になったような質の変化を感じる。そのぶん、まっすぐで衒いのないボーカルの声に、せつなく控えめなエロティシズムが加わって、さらに魅力的になったと思う。
 初期アルバムからのファンからすれば、だいぶおとなしくなっちゃってかなりもどかしいところもあるんだろうけど、最新アルバムはその分じっくり聴けて、心の奥底にぐっとくる。彼らは世代的にもキャリア的にもリンキン・パークと重なる比較的若いバンドで、これからどこへ向かっていくのかはまだわからないが、おおいに注目しているところだ。

 そもそも好きだったリンキン・パーク、サーティー・セカンズ・トゥー・マーズ(30STM)、レッド・ホット・チリ・ペッパーズもやはりアメリカ西海岸出身のバンドだ。さまざまなアーティストが活躍しているアメリカ西海岸地域は、分類したらきりがないくらいいろんなジャンルの音楽はあるし、同じカテゴリにあっても、もちろんそれぞれの音楽性は異なっているけれど(フーバスタンクは、リンキン・パークや30STMとくらべると、より直裁でアッパーな印象がある)、基本的な路線としてはやっぱ近いものがあるんだろうな……ああ、そういえば台湾の黄立行(Stanley Hwang)もロサンゼルス育ちで、ここの音楽の影響をもろに受けているのだった。
 少なくとも、一個人を惹きつけるなにか共通項のようなものは、はっきりとあるような気がする。地縁と音楽性が必ずしも一致するわけではないにしても。
 
 ところで、「アメリカ西海岸」というと、晴天の日が多く、からっとした気象条件から、モトリー・クルーとかガンズ・アンド・ローゼス、ヴァン・ヘイレンといった明快なハードロックをつい連想してしまう。だが、それらのバンドが活躍した1980年代よりももっと世の中の事情が複雑になってしまった21世紀においては、いくら天気がいいからといって単純明快享楽的といくわけにもいかなくなったのか、深く思い悩み、時には捨て鉢になり、苦しげにのたうつような音楽が際だって多くなった。
 そんな30STMのセカンド・アルバム「A Beautiful Lie」はエロスと退廃のお耽美なテイストをたっぷりと含みつつも、いったいなににせき立てられてるんだというようなせっぱ詰まったサウンドが、アルバム全編を駆け抜けている。歌詞の刹那的な内容も相まって、いいトシの大人が、モラトリアムをさまよう少年みたいに不安定で鬱屈した心情を思い切りぶちまけているように聞こえてしまう……いや、モラトリアムとかそういうことじゃないなあ。ついに降り立った火星の、あまりに殺伐とした厳しい現実に衝撃を受けて打ちのめされる、地球人の心の叫びのようだ。それにくらべて彼らのファーストアルバムは、なんだかわかんないがやたら壮大で、その分現実感がなかった。それは、まだ火星が未知の惑星で、ばくぜんとあこがれる宇宙のイメージだったからか(←違います)。
 不思議なことに、ここで唐突に思い浮かんだ日本のバンドが、それっぽい感じのLUNA SEAとか黒夢とかラルクではなく、デカダンスとか重厚さとかそういう位置とはある意味対極のところにいるであろう、バンプ・オブ・チキンだった。
 あまりに生硬な、若さゆえの焦燥、理由なき苛立ち、ざらついた疾走感。それでも未来はあかるく希望に満ちている。彼らの、せわしく前のめりで、極端に湿度の低い歌世界に触れたとき、ひどくエモーショナルで、うっかり衝突しちゃったらダメージのでかそうな30STMを思い出してしまったのはなんでだろう?
 たぶんそれは、国と世代は違えど、振り返らず戻らず、ひたすら生き急いでる感じがほんの少しだけ似通っていたからなのかなあと、つらつら思っているところである。

と書いているうちに、いつの間にか西海岸がすっかり遠くなってしまった気が……
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by terrarossa | 2006-11-07 21:41 | 音楽 | Comments(0)
2005年 07月 20日
アストル・ピアソラ ~格闘技系タンゴ・アンサンブルの真髄
 こんなタイトルをつけてしまっては、日本にもあまた存在すると思われるピアソラ・フリークの方々がお怒りになるやも知れぬ。
 が、聴けば聴くほど、やっぱり彼らのパフォーマンスはアンサンブルなんて生易しい形容は似合わない。ステージならぬ、リング上でデスマッチを繰り広げているようにしか聞こえないのだ。当然、聴く方も体力勝負。いつのまにか数十枚にまで増殖(?)してしまったCDを選んでプレイヤーにセットして「再生」ボタンを押せば、今日も試合のゴングが高らかに鳴り響く。カーン。

 今でこそ、アストル・ピアソラといえば、ひとつのジャンルである、と言われるほどの人気を誇っている。だが生前は、そのあまりにも革新的な音楽性が認められず、不遇の人生を過ごしたひとである(今でも、タンゴ・ファンの中には、ピアソラの音楽が「タンゴ」にカテゴライズされることを嫌い、否定する者も少なくないと聞く)。
 彼は自分の音楽に最もふさわしい表現形態を求め、楽団の編成や構成メンバーを次々と変えていった。初期の八重奏団および弦楽オーケストラ、バンドネオン・バイオリン・ピアノ・ベース・エレキギターで構成される五重奏団(キンテート)、シンセサイザーを導入したコンフント・エレクトロニコ、打楽器が加わった新八重奏団(ヌエボ・オクテート)や九重奏団(コンフント9)、バンドネオンをもうひとり入れ、バイオリンをチェロに代えざるを得なかった最晩年の六重奏団(セステート)……
 結成しては解散し、たえずメンバーの入れ替えを行っていたピアソラの楽団だが、参加していたのは、いつもその時代トップクラスの名手ばかりだった。そんな実力派のパフォーマーがずらりと揃えば、ステージ上では激しい火花が散ること必至。喧嘩上等。
 もちろん、アンサンブルというからには、ただの喧嘩じゃ話にならない。いうまでもなく、音楽としてまとまっていてなんぼだ。ただでさえ、バランス崩して瓦解寸前、ぎりぎり瀬戸際のところをわざと選んでいるような危うさがピアソラ最大の魅力。パフォーマー全員が同格の実力を備えていなければ、ガチンコ勝負の格闘技系アンサンブルは成立しない。特に、ピアソラの音楽世界を最も優れた形で体現し、かつ高い評価を得ていた五重奏団の構成は、異なる楽器がひとつずつ。ごまかしはきかない。

 ピアソラの死後、多くの優れたアーティストが彼の音楽をとりあげるようになったが、特に五重奏団以上の編成では、全ての楽器について、ピアソラの楽団に参加していたようなレベルの名手を揃えることは非常に困難なのだろう。
 構成メンバーの誰か一人(たいていは、アルバムのタイトルにくる人)だけが特別に上手いことが、すぐわかってしまうのだ。
 これではどうにもならない。 
 ピアソラの音楽は、ほんとうにむずかしい。


(どうでもいいつけたし)
この前見たアルゼンチン映画、「ブエノスアイレスの夜」での音楽は、まるで地の底へ叩きつけられるかのような、恐怖感煽りまくりの陰鬱きわまりないサウンドで、もはや音楽というより「効果音」。この響き、どこかで聞いたような……と思っていたら、担当は、ピアソラ最晩年の六重奏団に参加していたピアニスト、ヘラルド・ガンディーニだった。問答無用の重苦しく狂気溢れるピアニズムで、六重奏団のカラーを決定づけたその人である。現代音楽の作曲家としても有名な人だというので、当然いろんな仕事をしているのだろうけれど、エンドロールで彼の名を目にしたときは、なんだかとてもうれしかった。
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by terrarossa | 2005-07-20 00:05 | 音楽 | Comments(0)
2005年 05月 31日
うれしいしらせ
 昨晩、友人よりうれしい情報がもたらされた。

a0021929_2342090.jpg 以前このブログでもとりあげた、台湾のイケてるラッパー(←個人的見解)黄立行(Stanley Hwang)が、最新アルバム「黒的意念」で、台湾金曲獎(日本で言うところのレコード大賞みたいなもんか)の最佳國語男演唱人獎(最優秀男性ボーカル賞)を受賞したというのだ。
 中国語圏で絶大な人気を誇るジェイ・チョウやワン・リーホンなどをぶっちぎっての、初の受賞である。
 台湾のニュースサイトによると、ノミネートはされたものの、ぜんぜん注目されていなかった彼が受賞したことは、周囲も本人にとっても全くの予想外だったらしい。名前の発音が微妙に似ているワン・リーホンと、読み間違えたか聞き間違えたかされて、混乱するハプニングもあったようだ。
 L.A.BOYZ解散後、ソロアーティストとして再出発した黄立行に、所属事務所はアイドル路線を踏襲させようとしたが失敗。彼は自分が本当にやりたいと思った音楽をめざした。その結果、ヒットに恵まれず、周囲の理解も得られなかったが、彼はあくまでも自らの音楽に対する姿勢を貫いた。ようやくそれが認められたのだから、喜びもひとしおだろう。
 自分としても、「一聴き惚れ」して以来、これが認められてないってどういうことなんだ、とまで思っていただけに、本当にうれしかった。
 前に書いたとおり、日本盤未発売のアーティストゆえ、日本での知名度は皆無といっていい黄立行だが、これを機に注目されるといいなあ。一聴の価値はあると思う。いや大ありだ。知らないなんて、ほんと、もったいない!
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by terrarossa | 2005-05-31 02:37 | 音楽 | Comments(0)
2005年 05月 14日
ミクスチャー・ロックの「公園」をさまよう
 ここんところしばらく、リンキン・パークのCDばかり聴いている。
 高校三年までクラシックにしか興味を持たず、ふとしたことで洋楽にはまり、大学時代は洋楽オンリーという、節目ごとにスイッチが切り替わるような音楽歴(もちろん聴く方)をたどった後は、手当たり次第のごっちゃごちゃ、になってしまった。およそ考えられないような取り合わせ、たとえばグレゴリオ聖歌と、アストル・ピアソラと、エアロスミスと、これまた現在ヘビーローテーション中のQuarashi(アイスランド出身のヒップホップグループ)が、不思議なことに自分の中では無理なく共存している。まさにカオスの如しなのだが、どれもみんな「好き」なのだ。

 ということで、リンキン・パーク。
 バンドを支える重低音はハードロックそのものだ。そこにラップやスクラッチが乗っかっている。このありそうでなかった新鮮な組み合わせをどう形容したらいいんだろう?
 ちょっとしたとまどいが、やがてぞくぞくするようなときめきに変わるのにはさほど時間はかからなかった。ハードロック全盛の80年代に洋楽漬けだったこともあって、リンキン・パークの、全く異なるのにどこか懐かしい、腹にずっしりくるサウンドはまさにツボだった。その一方で、90年代後半になって台頭し始めたファンクやヒップホップにも強く惹かれていたから、その二つの「好み」の両方を満たすバンドなんてあった日には、もう一も二もなかった。
 そのがっちりと安定したビート、頑丈な「屋台骨」を構成するのが、ギターのブラッド・デルソン、ベースのフェニックス、ドラムのロブ・ポードン、そして往年のハードロックバンドには存在しなかった「DJ」、ジョセフ・ハーン(りりしい顔立ちの韓国系アメリカ人、ジョセフ・ハーンは、デビュー時より体重がかなり増加したのか、今や秋葉系オタクの青年みたいなビジュアルなんである。や、もともと彼自身アニメもフィギュアも大好きだそうだし、そのものなんだけど。でも、アメリカ人に秋葉系もへったくれもないし、それに、超人気バンドのサウンドの要が秋葉系だなんて、非常に「萌え」ました。アニキかっこいいです)。
 「アメリカにおけるロックバンドのフロントマンで、初めて成功した日系人」と言われている、マイク・シノダのラップはすっきり男前でクール。はじめて聴いたとき、本人の姿も知らず、歌詞の中身も理解していないうちから、非常に知的で聡明な印象を受けた。そこらへんにいそうでいない、インテリジェンスただようMC、これもツボ。そして彼、マイク・シノダがリンキン・パークのサウンドイメージの源である。彼と、DJ、ジョセフ・ハーンの持つオタクな職人気質こそが、アートなサイバーパンクとかSFアニメのにおいが香ばしくただよう、隅々まで計算し尽くした緻密な音を作り上げているのだ。
 チェスター・ベニントンのボーカルは、直感的、有機的な印象がある。彼は、リンキン・パークの、ある種理論的で、隙がない印象のサウンドに風穴をあける重要な存在だと思う。はじめは線が細くて頼りない声だと思って聴いていたら、いきなりすべてを絞り出すように絶叫したので驚愕した。このひとは昔、つらいことが色々あったんじゃなかろうか。こんな歌い方をしていたらそのうち喉がだめになるんじゃないかと、個人的にはハラハラしている。
 ナイーブで腺病質な、時としてぶち切れて暴走するチェスターのボーカルと、クールなマイク・シノダのラップ。全くベクトルの違うツインボーカルが絶妙にからんでいることが、このバンドの最大の特徴であり、魅力なのだ。 
 そしてこのバンドの曲は、すくなくともアルバム収録されたものは、すべてマイナーコード、「短調」である。ここにもチェスターがボーカルである、ということが大きく関わっているような気がする。叙情的でメロウな「泣き」のハード・サウンドなんて、古き良き時代のハードロックバンドの王道ではないか。それでいて湿っぽく重たくならないあたりは、やっぱりイマドキの歌だ。とにかく、自分をはじめとした、とうの立ったトシヨリのハートわしづかみである。そこにキレの良いスクラッチとラップを乗っけて、若者のハートもがっちりつかんどくなんて、やるなあ。
 ちなみに、ファースト・アルバムの曲には、ヒップホップ業界ではお約束のように出てくる教育上よろしくない単語が、全く使われていないそうだ。それでいてじゅうぶんに攻撃的で、ひりひりするような歌を作り上げているというのがすごい。そういうところまできっちり見極めてやっている感じがするから、(不適切な表現かもしれないが)このひとたちの偏差値はやっぱり高いのだと思う。
 また、アートスクール出身のシノダとハーンがいることから、バンドのビジュアルデザインを彼ら自身が手がけているというのもこのバンドの特徴だ。メンバーみずからジャケットのデザイン、ミュージックビデオの製作まで行う超メジャー・バンドというのは珍しい。これも彼らの強みだろう。
 どうもしばらくリンキン・パーク(公園)からは抜け出せそうにない。当分「公園内」の混沌をさまようことになるだろう。まだ若い彼らが、これからどのような音楽の世界を展開してくれるのか、とても楽しみだ。
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by terrarossa | 2005-05-14 11:44 | 音楽 | Comments(0)
2005年 04月 19日
格調高い旋律、お下劣な歌詞~中世音楽の世界
 初めて自分で買ったレコード(まだCDはなかった)は、12世紀から14世紀にかけてのフランスの聖歌と世俗歌をおさめた「ゴシック期の音楽」(デイヴィッド・マンロウ指揮・ロンドン古楽コンソート)だった。

 高校に入った頃、中世ヨーロッパの生活と文化、とりわけ服飾史と音楽に興味を持った。世界史であつかう一時代には違いないが、成績向上には全く役に立たなかった。ただひたすら、好奇心の赴くままに本を読み、資料を集め、自己満足に浸るだけ。それが何かを生み出すことはなく、後に何一つ残らなかった。こういう、生産行為に結びつかないエネルギーの無駄遣いのことを的確に言いあらわす表現を、当時は知らなかった。だが、今ならわかる。あれはまさに「中世ヨーロッパ萌え」だったのだ。

 ところが、中世ヨーロッパの音楽がどんなものか知りたくても、学校の音楽の授業では「グレゴリオ聖歌」以外登場してこない。いわゆる「クラシック」というジャンルで、広く世間に認知されているのは、せいぜい17世紀より後の時代の音楽だ。それ以前の時代のは、「芸術としての音楽」というより、「歴史的資料」あつかい。音大にでも行かない限りは、縁のなさそうな世界だ。
 今は、中世の音楽を演奏する音楽家や楽団も増えたし、何よりインターネット通販という手段があるので、CDを手に入れることはたやすくなった。が、少なくとも20年以上前の日本の田舎で、ど素人の高校生が歴史的資料扱いの時代の音盤の存在を知り、また、それを手に入れることが出来たのは、ほとんど奇跡に近いことだった、と思う(←大袈裟)。
 1976年、わずか33歳でこの世を去った夭折の天才音楽家、デイヴィッド・マンロウが、以後の古楽に関わる音楽家たちに遺した業績は計り知れないと言われている。彼の古楽に対する深い造詣と優れた解釈によって、断片的にしか残っていなかった遠い昔の音楽が生き生きと、鮮やかに甦ったのだ。彼が結成した楽団、ロンドン古楽コンソートの最後の録音から30年以上を経た現在でも、彼の遺した中世音楽の世界は、少しも古びることのない名盤として、現在も高い評価を得ている。
 どのみち、1980年代初頭に地方でも比較的容易に入手できた中世音楽のレコードといえば、優れた古楽器・リコーダー奏者として既に日本でも人気の高かった、デイヴィッド・マンロウ関連のものくらいしかなかっただろう。ともかく、中世音楽との出会いがデイヴィッド・マンロウから始まったことは、今にして思えば、ものすごくラッキーなことだったのだ。

 さて、首尾よく購入と相成った「ゴシック期の音楽」、さしたる予備知識もなく聴き始めて、驚愕した。今まで一度も聴いたことのなかった響きに、瞬く間に「もってかれて」しまった。
 それまで多少なりとも耳にしていたバッハもモーツァルトもベートーベンも、ラヴェルもショスタコーヴィッチもガーシュウィンも吹っ飛ぶほどの衝撃だった。
 15やそこらのガキにとって、それは真剣に「カルチャーショック」だった。こんな音楽の世界があったのか!

 レコード前半は、ノートル・ダム学派の二大巨匠、レオニヌスとペロティヌスの聖歌「地上の全ての国々は」。たった22語の歌詞を、レオニヌスの曲では9分あまり、ペロティヌスの曲では12分近くかけて歌っている。どちらも端正でシンプルなのに単調ではなく、実にきらびやかな感じのするミサ曲である。
 そして後半は、12世紀から14世紀フランスの、いわゆる「世俗歌」。この時代の歌の多くは、声部ごとに歌詞が違う。これには心底驚いた。つまり、三重唱ならば三種類の異なった歌詞を同時に歌っているのだ。歌詞の意味がわからずに聴いている分には、響きが非常に斬新で思わず魅了されてしまうが、当時の人々は混乱しなかったのだろうか?
 その歌詞だが、実にバラエティに富んでいる。純粋な恋の歌あり、中世ヨーロッパらしく神をたたえる歌あり……そして、二大下ネタ、つまり排泄系と猥褻系の両方を兼ね備えたお下劣な歌、あり。
 中世の有名な文学作品といえば、ダンテの「神曲」、ボッカチオの「デカメロン」、チョーサーの「カンタベリー物語」……これらは、世界史の教科書にも登場する有名な作品だが、「神曲」はともかく、「デカメロン」と「カンタベリー物語」は、学校の授業においてその内容を深く突っ込むにはやばすぎる、下ネタ満載の文学作品だったりする。たとえば、女にしつこく迫り、せめてキスだけでもとせがんだ男が、暗闇のなかでやっと口づけを許されたと思ったら、相手は女のはずなのに、なんとそこは毛むくじゃら。実は女は、自分の尻の穴を男に突きだしていたのだった。ざまあみろ、してやったりと喜ぶ女の話、等々。
 キリスト教勢力が全ヨーロッパを支配し、暗黒時代とも呼ばれた中世だったが、性的にあけすけでおおらかな庶民の生活があったことも、また事実なのだろう。

 そういう時代背景あってこその世俗歌だから、歌詞の内容も推して知るべし。その後何枚か中世の世俗歌を収めたアルバムを買ったが、中には、歌詞が非常に猥褻ですと紹介しておきながら、資料がないため翻訳できません、と弁解(?)している、訳のわからないものもあった。夢と妄想とロマンがごっちゃごちゃの中世音楽ワールドである。
 だが、この時代のどの歌も、歌詞の意味さえわからなければ、実に格調高い歌にしか聞こえない。学校の教材にもうってつけの音楽だ。だからこそ、粉屋の女房が浮気相手の男とやりまくって、ひーひーあえぐなどという歌を、あくまでもお上品に、高らかに歌い上げているさまは、聴いていて非常に痛快だ。できればあの頃、校内放送で堂々と流して、ニヤリとほくそ笑んでみたかった!

a0021929_4473917.jpg←後にCD化されて買い直した「ゴシック期の音楽」。LP盤よりも収録曲が増えていてうれしかったのだが、この後に再発売された同タイトルのCDは、収録曲がさらに大幅増加して、なんと3枚組になっている。これも買えってかあ?うう、なんか納得いかねえ。
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by terrarossa | 2005-04-19 04:54 | 音楽 | Comments(0)
2005年 03月 27日
台湾のアッパレなラッパーたち
 中国語圏の人たちはバラードが好きだ。
 むこうに行ってMTVを流しっぱなしにするとよくわかる。よくもまあ、似たようなバラードばっかりオンエアして飽きないものかと感心するくらいだ。当然、ヒットチャート上位にあるのはおおむねバラードナンバーである。最近、音楽シーンも世代交代が進んで若手がどんどん出てくるようになったので、ちょっとは変化もあったかと思っていたが、やっぱりバラード強し、だ。
 中華圏の映画をよく見るようになっても、バラードが席巻する音楽方面にはどうも食指が動かなかった。自分がもともとバラードを苦手としているからだ。(もちろんいいとか悪いとかではなく、単純な個人的嗜好の問題にすぎないことは言うまでもない。他人にどんなにいいよと勧められようが、心に響かないものをじっくり聞かされることほど苦痛なことはない。音楽の好みは理屈じゃない。ただ好きか、好きでないかだけだ。)

 年末年始に台湾を一回りしていた時のことだった。
 大晦日は台湾の最南端の安宿に泊まっていた。テレビでは、年越しイベントの歌番組を放映していた。その夜は台湾南部にあるまじき寒さで、暖房設備のない部屋で布団にくるまって、震えながら歌番組でも見ているほかなかった。入れ替わり、色々な歌手が登場しては持ち歌を歌う。案の定、ほとんどがバラードだ。それでも眠るのはまだ早いし、他にすることもなかったので、惰性で見ていると、ひょろんとした坊主頭のにいちゃんがにこにこしながら登場してきた。
 年越しライブなのに、やけに地味な格好だな……ヒップポップ系の人ならこんなもんか(←乱暴な決めつけ)。ゆるいラップでもやるのかしらん、と思っていたら、予想に反してずっしり重いビートでもって曲が始まる。そしてそこに絡んできたのは、ダークで意味深なラップ。
 なんだなんだ、すんげえかっこいいぞ!
 思わず画面を食い入るように凝視してしまった。台湾にもこんな歌手がいたのか!
 これが、黄立行(Stanley Hwang)との記念すべき(?)出会いだった。

 さて、この一目惚れならぬ「一聴き惚れ」してしまった黄立行、音楽のキャリアはけっこう長く、以前に兄と従兄弟で結成した「L.A.boyz」という3人組のアイドルグループで一世を風靡したらしい(ただし、3人のルックスはお世辞にもアイドルとは言い難い)。その「L.A.boyz」のアルバムも聴いてみたら、悪いが相当トホホな感じだったので、ある意味驚いた。アイドルグループっぽいぺらぺらなサウンドは、当時(約10年前)の流行だったのかもしれないが、歌は斉唱、しかもへなへなでガッカリ。バラードなんて聞けたものではない。ラップナンバーも当時としては斬新だったとはいえ、決して上手いとは言えず、今の彼を考えると、よくもここまで大化けしたなという一言に尽きる。

a0021929_820046.jpg 黄立行のアルバムで一番最初に聴いたのが、最新アルバムの「黒的意念」だった。
バラードや、ストレートなロックナンバーも入ってはいるものの、これはもう完全に(自分の大好きな)リンキン・パークとか、リンプ・ビズキットといった、いわゆるラップ・メタルとか、ミクスチャー・ヘヴィ・ロックと言われている類だ。あらためてリンキン・パークのPVなどを見てみたら、スタイルまでもがあまりにも彼らと酷似していて、ちょっと驚いたと同時に、彼がアメリカ・LA育ちだということを知って、納得もした。
 過去のアルバムを聴いてみると、中国語圏にありがちなバラードや、こちらが気恥ずかしくなるくらいのまっとうなロックンロールナンバーが大半を占めている。しかしやはり、ところどころで内へ内へと籠もってゆく鬱屈の片鱗のようなものはちらほら見える。ファーストアルバム「[イ尓]身邊」にも、少ないがラップナンバーが入っている。二枚目「馬戲團猴子」、三枚目「STAN UP」と行くに従って攻撃的な歌が増えてくのが興味深い。
 そして、溜まりに溜まった鬱屈を一気に噴出させてしまったような感があるのが、最新アルバム「黒的意念」だ。赤い炎がもっと温度を上げて青い炎になってしまったかのようだ。やり場のない憤懣と虚無のにおいを漂わせた攻撃的なラップはまさに「酷(クール)!帥(かっこいい)!」。日本盤が出てないのがほんとに惜しい。きちんと宣伝したら、かなり相当イケるんではなかと思っているのだが。
 そういえば、なぜか日本でこのタイプの重厚な音をもってくるラッパーは、メジャーシーンでは見かけないような気がする。今どきの日本のメインストリームであろう、ゆるめのすかすかなラップミュージックも悪かないんだが、やっぱり自分は、音楽も腹にずっしりたまるものが好きなのだと再認識する。ギンギンのヘヴィーなサウンドに叩きつけるようなラップが乗っかる快感といったら!

 そして「L.A.boyz」解散後、兄の黄立成(Jeffley Hwang)もまた、数年のブランクの後、音楽活動を再開していたことがわかった。早速、彼がリーダーを務める「黄立成&麻吉(Machi)」というヒップホップグループのCDも聴いてみることにした。
 なんとそれが、弟の音楽と全く違うのに、(自分の中で)ストライクゾーンど真ん中だったのだ。面白い!

a0021929_8204431.jpg 黄立成のサウンドは陽気でウィットに富んでいる。ヒップホップのメインストリームを歩んでいるのだなという印象だ。弟の「陰」に対し、兄は完全に「陽」だ。実に対照的な兄弟だなあと思う(見た目もそんな感じだ)。
 そもそも打ち込みにターンテーブルにと、リフレインする機械音を駆使しまくる宿命ゆえ、とかく薄っぺらで無機的な音に陥りがちなラップミュージックだが、彼らのラップからはアジアな湿度と体温がしっかりと感じられる。彼らが音楽を、ラップを楽しんでいることが伝わってくる。それでいて響きは痛いほど攻撃的で刺激的だ。ビートも軽快だけどしっかり厚みと重量感がある。
 これには、彼らの音楽性に加えて、もっと根本的な、中国語の語学的な特徴が関わっているのかもしれない。
 何せすばらしく歯切れがいい。言葉がずばずばとつき刺さっていくような印象だ。当たり前といえばそうだ。中国語は一語一語が非常に短い。しかも漢字一文字が非常に多くの意味と情報を持つ。これほどラップに向いた言語は他にないんじゃないだろうか?
 ただ、メッセージこそが重要な「ラップ」ゆえ、外国人にとって意味がわからないというのが致命的だったりする。しかも彼らのラップはほとんどが「地元」でしか通じない言葉、台湾語だ。
(個人的には、自分にとって音楽はまず「音」で、歌詞の意味は重要でない、という聴き方をするので、台湾語がわからないことに関しては全く気にならないが)。
 
 残念なことに、黄立行も黄立成も、本国台湾では「本格的」すぎるのか、一部で話題にはなっても、いまいちブレイクしきれていないらしい。相変わらずバラード全盛の台湾音楽シーンにおいて、相当苦戦を強いられているポジションにあるようだ。だがこれからも、売れ筋狙いのバラード方面などには行かずに、ぜひ我が道を邁進していただきたいものである。
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by terrarossa | 2005-03-27 08:27 | 音楽 | Comments(3)