カテゴリ:見聞録( 40 )
2004年 10月 22日
うしのかおり
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 就職して3年目の夏に、初めて海外旅行へ行った。行き先はベルギーとオランダ。ベルギーもオランダも花屋だらけで、花が至る所にあふれかえっていた。小さな駅の売店にも花専門スペースがあり、駅を出るとまた花屋のスタンド。ごっついオッサンが、新聞紙にくるんだでかい花束をひょいと肩にかけて歩いていたりする。ひとの家を訪問する際、日本ならば菓子折を持参するところ、かの国では花を持っていくらしい。ということで、種類ごとのばら売りだけでなく、花束にして販売しているものも多かった。とにもかくにも百花繚乱とはこのことか。さすが「花の国」であることよ。
 当然、各家庭での庭も、えらく気合いが入っていた。ベランダはプランターやハンギングバスケットに植えられた花々で飾られ、洗濯物は見あたらない(ベルギー在住の知人に聞いたところ、こちらでは洗濯物を人目につくところへ干すということに関して、何らかの規制が設けられているとのことだった。アジアじゃベランダといえば洗濯物、香港で目撃した満艦飾は、そりゃあ壮観な眺めだった、ということを思うと、ずいぶん状況が違う)。郊外の住宅の庭は、目にも眩しい緑の芝生を囲むように様々な季節の草花が美しく配置してあり、雑草の一本も生えていない。毎日ピンセットで雑草のひこばえを抜いてるのかあ?と思ってしまうくらいの完璧さだった。絵のような風景とはこのことか。
 花で飾る・庭を手入れする、という人々の関心が非常に高いから、このような状況にある訳なのだが、環境条件に助けられている点もあると思う。同等のレベルを日本(特に関東以西)で維持するとなると、更に数倍の努力と工夫が必要となるに違いない。
 行ってわかったことだが、まず、そこいらで見かける虫、雑草の種類が非常に少ない。夏季も降雨が少なく、湿度が低くて涼しいという気象条件によるものだろう。蒸し暑いアジアの夏とは明らかに違う。当然、植物にかかる病気も害虫も少ないと思われる。そういえば向こうの住宅に網戸などというものはなかった。入ってくる虫がいなければ、そんな余計なものは必要ない(知人の子供は「蚊に刺されたことがない」と言っていた)。どうりで裸になって森林浴だってできる訳だ。

 そして、行ってわかった極めつけの事実、それは「うしのかおり」。花の国であると同時に畜産の国であるオランダでは、あふれかえっているのは花だけでなく、牛や羊もまた然り、であった。そう、絵のように美しい庭の風景に充ち満ちているのは牛の香り、牛舎のにおい。イメージぶち壊しである。
 現物無しに「におい」の情報をリアルタイムに伝達する手段は、幸いなことに(?)まだないようだ。いや、日夜技術革新は進んでいるのだから、将来「におい」の情報もダイレクトに嗅覚へ伝わるようになるのかもしれない。となれば、日本に居ながら、絵のように美しい庭々と牛の香りでリアル・オランダを満喫することができるのかも……満喫したくはないが。
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by terrarossa | 2004-10-22 04:56 | 見聞録 | Comments(0)
2004年 09月 20日
シベリア呆け
 今年はお盆休みを利用して、ついに念願の「ロシア→中国、陸路(鉄道)で国境越え」を果たしたのだが、帰国後、何かが燃え尽きてしまったらしく、さっぱりエンジンがかからない状態が延々と続いている。旅行中も帰国後も至って健康、体調を崩している訳ではない。それなのに、仕事から帰ってきても何もする気にならない。けれども、一ヶ月以上ほったらかしにしていたここに、こうやって何か書く気になったのだから、秋の訪れと共に少しずつ恢復しつつあるのかしらん。ぼちぼち「再起動」したい今日この頃。

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         松花江の河辺で憩う人々。どこへ行っても人でいっぱいだった中国・ハルビン市にて。
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by terrarossa | 2004-09-20 04:28 | 見聞録 | Comments(0)
2004年 08月 06日
ユジノサハリンスクからポロナイスクへ その4
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 ユジノサハリンスク駅前には、旧共産圏らしく、無用なまでに広い、これぞまさに「広場」と言うようなスペースがある。一応舗装はされているのだが、元々雑なのか、それとも傷んだのを修理していないのか、とにかく均平でないために水たまりが至る所にできている。さらに、水たまりにはどこからか運ばれてきた泥や砂やゴミが堆積し、そこへ人と車が往来することによって、見事なぬかるみが完成。ただ、隣接の公園はきれいに整備されていたので、広場の惨状も徐々に改善されていくことになるだろう(ちなみに春、雪解け時の街は相当悲惨な状況だそうだ)。
 ほどほどに泥はねを気にしつつ、だだっ広い広場を縦断し、駅舎に入る。薄暗い待合室を囲むようにキヨスクが並ぶ。客は商品に近づくことも、触れることもできない。買いたい物があれば、ガラスの内側にびっしり貼り付けられた商品見本を指さして、腕一本入るかどうかというくらいの小さな窓口から現金と引き替えに商品を受け取るということになる。映画のチケット売り場のような感じだ。この方式は駅に限らず、町なかの売店でも同様。恐らく防犯上の理由だと思う。
 さて、駅に入ったものの、改札口と呼べるようなものはない。ホームの案内もない。ポロナイスクへ向かう長距離列車は一体どこに?
 待合室を抜けると、低い「ホーム」らしきものがあったが、その先は線路だった。客車や貨物列車があちこちに停車している。ホームがないので先頭が揃っておらず、すばらしくランダムな配置だ。間違って列車に轢かれる恐怖を感じつつ、線路をまたいで列車を探す。線路も実際歩いてみるとずいぶん高さがあって、何本もまたぎながら歩くのは結構しんどい。やっとのことでそれらしき車両にたどりつくと、乗車口に人がいたので(多分、乗務員)会話集指さし方式で訊いてみたら、この列車だという。やれやれ。
 車両は旧ソ連製とおぼしき大味(?)なつくりで、乗車した二等車は4名1室のコンパートメント形式。列車は昼間運行だが、車室は両側二段ベッドの寝台車だった。車両が大きいため、かなりゆったりとしている。なにせ9時間近く乗る予定なので、これは有り難かった。
 同室になったのは、50歳と16歳の父子。こちらはロシア語ができず、向こうは日本語も英語も全くできない。それでも彼らは、滅多に見かけることの無いであろう変な日本人観光客にそれなりの関心を持ったようだった。
 頼みの綱は「ロシア語会話集」のみ。指さし方式でどこまで通用するのだろうか。
 乗車して間もなく昼食の時間となった。この列車には食堂車は連結されておらず、車内販売も来ない。乗車前に駅前で購入したピロシキをとり出す。車両にはサモワール(湯沸かし)があり、お湯には不自由しない。ロシアの長距離列車には必ずついているのだという。同室の彼らも持参した弁当を広げる。チーズとサラミ、そしてなんとイクラのサンドイッチだった。(心の中で「オホーツクサンドイッチ」と命名)。ありそうで無い斬新な組み合わせに「写真を撮っていいか」と尋ねると、<父ちゃん>は不思議そうな笑みを浮かべつつ「いいよ」と言ってくれた。
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by terrarossa | 2004-08-06 02:25 | 見聞録 | Comments(1)
2004年 07月 17日
ユジノサハリンスクからポロナイスクへ その3
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ユジノサハリンスクは、カラスと野良犬だらけだった。

 とは言っても、ここでは恐らく犬をつないで飼うことが少ないだろうから、そこらへんにうろうろしている犬をすべて野良犬と言うのは、間違っているのかもしれない。
 ユジノサハリンスクの駅前を歩いていると、物欲しげに近寄ってくる犬がいた。こちとらロシア語がさっぱりわからず、ピロシキひとつ買うのも苦労している身、犬にやるようなものは生憎と持ち合わせていない。悪いねえ、と頭をなでてやったが、餌もやらずにそんなことをするのは実に危険な行為だったことに後で気付く。……そうだ、こいつら絶対に狂犬病の予防注射なんかやってねえよ。
 大きさも見てくれも実に様々な犬が、群れになってゴミをあさり、時には犬同士で派手に喧嘩している。さすがに恐くて近寄れない。カラスも同様で、実に傍若無人な振る舞いだ。形態からして、どうやら日本の都市部に多いハシブトガラスと思われる。
 わかりやすい弱肉強食の世界。気候も厳しいだけに、なおいっそう生存競争は熾烈を極めているようだ。人間の方も、自分自身の生活やら何やらが厳しくて気が回らないのか、これだけの野良犬とカラスにもさほど関心を持ってるようには見えない。ゆえに、ゴミ置き場は荒らされ放題で、それを片づける者も居ない。ロシア人は動物好きと言われているが、迷惑きわまりない彼らに対しても寛容なのか(それとも単に駆除対策の予算が取れないので放置しているだけなのか)。お互い生きることが厳しい者同士、奇妙な共存すら成り立っているようにも見えたが、本当のところはどうなのだろう。
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by terrarossa | 2004-07-17 03:48 | 見聞録 | Comments(3)
2004年 07月 03日
ユジノサハリンスクからポロナイスクへ その2
a0021929_21535.jpg 地平線をどこまでも縁取る落葉松の林が、ぐんぐん近づいてきた。小さなプロペラ機は着陸もあっという間だ。

 首都モスクワからはるか遠く離れた「最果ての州都」の滑走路に、タラップが降ろされる。憂鬱な曇天の空が、頭上に重苦しく広がっている。刺すような冷たさの風には霙がまじっていた。サハリンはもう冬なのだ。
 フロントガラスが派手に割れた油臭いバスにぎっしり押し込まれ、空港の建物に運ばれる。以前行ったモスクワでも、トルクメニスタンのアシガバードでも、チャルジョウでも、乗車したバスのフロントガラスには、ことごとく大きなひびが入っていた。ここでも同様ということは、これが旧ソ連邦の「お約束」なのかと勘繰りたくもなる。

 駅に背を向けて、いまだに堂々と立っているレーニン像のそばに、予約したホテルはあった。「ルィバーク・ホテル(訳すと「漁師ホテル」と言うらしい)」という名の安ホテルは、サハリンを訪れる日本人には滅多に利用されていないとのことだった。なるほど、フロントのおねえさんは日本語どころか英語も全く通じない。この時点で、ロシア語が一言もできないで一人旅をすることの無謀さにあらためて気付く。が、今更後悔したところで、どうにもならない。持参した「ロシア語会話集」を指さしながら何とか意思疎通をはかる。
 質素な部屋はがらんと広く、いかにも大味な「ロシアのホテル」といった風情だった。こんなに部屋は広いのに、家具とベッドは異様に小さく、特にベッドは、函館空港へ行くために乗車した「北斗星」のB寝台のほうがまだましかと思えるほど、幅が狭かった。これでは寝返りもうてないではないか。
 一方、何も入ってない冷蔵庫だけはやたら大きかった。以前宿泊した別な都市でのホテルでも全てそうだったのだから、これも旧ソ連流と言うべきか。
 背もたれのない長椅子のような狭いベッドに横になり、本日の記録をメモしていると、突然ばちんと音がして明かりが消えた。停電だった。五分ほどして、明かりがついた。が、更に十五分後、再び停電が五分間。やれやれと思っていたら、三十分後にまた停電。時刻はというと、夜八時を回った頃。ゴールデンタイムである(ロシアにもゴールデンタイムってあるのだろうか?)。電力不足のための計画的な停電というにしては、あんまりな時間帯だ。これでは、バッテリーのついてないパソコンなど、絶対に使えない。この街のオフィスでは、突然の停電に備え、さぞかし厳重な対策をとっているに違いない(と、思いたい)。少なくとも自家発電装置は不可欠だろう……

 停電続きだし、疲れを翌日に持ち越すのは良くないと思い、さっさと眠ることにしたが、どうも落ち着かなかった。この「落ち着かなさ」が、低周波音が全く聞こえてこないためだと気付くのに、しばらく時間がかかった。自分はこんな所で、蛍光灯、冷蔵庫、空調に至るまであらゆる低周波音に囲まれて日常を過ごしていたことに初めて気付かされたのだった。さほど遅い時刻でもない。しかもここは市の中心部で駅前なのだ。まさか耳鳴りがするほどの静けさに悩まされるとは思ってもみなかった。
 
 霙は、夜半に雪へ変わったらしい。
 いっそう静かな夜に押しつぶされようにして、いつしか眠りに落ちていた。
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by terrarossa | 2004-07-03 02:16 | 見聞録 | Comments(0)
2004年 06月 23日
見る、見る、見る、描く
ものすごく久しぶりに絵を描いてみた。

色鉛筆画は2年ぶりくらいかもしれない。
ほんとうに気が向いたときしか描かないので、いつもそんなペースだ。
でも始まると、「寝ない、食べない、トイレも行かない」くらい夢中になる。
描く作業に集中している時間がとても好きだ。

描くという行為は、その対象を深く理解するための非常に有意義な手段だと思う。
たとえ仕上がりがへぼだったとしても、正確に描写しようと思う気持ちが強ければ強いほど、あらゆる部分の細部まで見るからだ。
色鉛筆画に関して言えば、自分の場合、「生物の標本スケッチ」がそもそものスタートだったせいか、いかにモノやヒトのかたちを客観的にとらえるかという点ばかりに関心が行ってしまい、内面の心理や造形の美といった情緒的でアーティスティックな方面への興味はいつもお留守になってしまう。
部品はどのように組み合わせられているのか、ネジの部分はどのような形になっているか。
普段意識して見ないような部分まで凝視することになる。集中すればするほど、そこへのめり込んでゆく。
相手が人物でもそれは同じ事だ。

だが、そのように深く「見る/見られる」関係にあるものが生身の人間と人間であった場合、しばしば事態は、単純に「絵を描く」という範囲を超えるものとなるらしい。
先日、「真珠の耳飾りの少女」という映画を観た。実在の画家、フェルメールをめぐるフィクションなのだけれど、俳優の演技は言うまでもなく、フェルメールの絵の世界がそのまま動いているようなセット、色彩がとりわけ素晴らしかった。
そして何よりも、絵を描くという行為がもたらす様々な事象を非常に丁寧にわかりやすく描写していて、そういう点で非常に気持ちのよい作品だった。

もっとも、当の自分がどうかといえば、身辺に居る訳でもない二次元の世界の人物ばかり描いている(従って、他者とどうこうなんてことは全く無い)。技術はぜんぜん伴ってないし、マスターベーションと言われても仕方ないけど、ルーツが「生物の標本スケッチ」だもの、そんなところが妥当か。
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by terrarossa | 2004-06-23 02:37 | 見聞録 | Comments(1)
2004年 06月 20日
橙色の夜
a0021929_44119.jpg 航空機の窓から初めてロンドンの夜景を眺めた時、それがオレンジ色だったのが、とりわけ印象的だった。ロンドンの夜はメチルオレンジ、暖色なのにひんやりと無機的で、あらゆるものの輪郭を際だたせる、低圧ナトリウムランプの色だ。
 「橙色の夜」はロンドンだけではなく、続いて訪れたスペイン、オランダ、ベルギー、ロシアも同様だった。ヨーロッパだけかと思っていたら、韓国も中国も夜のあかりは橙色。霧や煙などが発生しても物がはっきりと見え、しかも低コストという低圧ナトリウムランプが外灯に使われるのは、別に不思議なことではない。今まで訪れたことがある外国はそんなに沢山ではないから、推測の域を出ないが、もしかすると世界的には橙色の夜が標準で、白色の灯が圧倒的に多い日本の方が、特異的なのかもしれない。
 日本人は白い光を好むと言われている。そういえば外灯だけではなく、室内も蛍光灯のまばゆく白い光が圧倒的に多い。もっとも、日本でも高速道路やトンネルを中心に、以前からナトリウムランプは使用されていたし、最近は外灯に「橙色の灯」を使うところも増えてきた。蛍光灯も黄色みを帯びた「電球色」が売られるようになった。光の色に対する好みも少しずつ変わってきているのだろうか。
 が、そうは言っても、今のところ、日本の夜は圧倒的に白い光に満ちている。だから、海外へ行った時「ここは外国なんだ」と実感できる瞬間は、何と言っても夜。冴えたメチルオレンジの光に染まる街は、少なくとも見慣れた日本の夜の色ではない。
 そんなことばかり意識していたら、今では高速道路やトンネルの橙色の灯に遭遇するたびに、「ここは外国気分」を味わえるようになった。何はともあれ、安上がりでいい。
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by terrarossa | 2004-06-20 04:42 | 見聞録 | Comments(2)
2004年 06月 13日
台北駅、2004年5月4日、AM6:40。
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 台北駅で、偶然ある人に会った。

 3泊4日の短い台湾旅行だった。
 一人旅だったので特にスケジュールも立てず、気の向くまま映画を見て、本屋に行って帰ってきた。

 台湾人のその人は、現在兵役に就いている。
 彼はものをつくる仕事をしており、その作品を好きになったことがきっかけで知り合った。とはいっても、個人的に連絡を取り合うような親しい間柄ではない。友人と呼べるような対等な立場ではない。まして兵役中のこと、その所在などわかるはずもなかった。

 帰国の朝、寝坊して地下鉄を一本乗り過ごし、台北駅到着。空港行きバスターミナルは、駅地下に延々と続くショッピングモールの向こうだった。
 シャッターが下りて静まりかえった地下街を、ただひたすら急ぎ足で歩いた。向こうから人が来ることにも気付かないほど焦っていた。反対方向から誰かが歩いて来る、と気付いたのは、すれ違った瞬間のことだった。反射的に振り向いた。いつもなら、誰かとすれ違うたびにいちいちそんなことはしないが、不思議なことにその時は、絶妙なタイミングで、お互いがお互いの方を同時に見たのだ。で、ふたりして「なんでここにいるの?」
 この日は特別に、軍の行事があるとかで、駅に集合していたという。時間の合間を見て地下へ買い物しに下りてきたところだったらしい。お互い急いでいたので、5分間ほど立ち話をしただけで別れた。偶然というにしては、あまりにも凄すぎるタイミングで、いまだに信じられない。話しているときは冷静だったつもりだが、独りになって急に怖くなり、これから自分が乗る飛行機が落ちるんじゃないかと本気で心配してしまった。だから、無事成田に到着したときは、心底ホッとしたのだった。

 映画「ブエノスアイレス」(監督:ウォン・カーウァイ)のラストシーンを思い出した。
 アルゼンチンで恋人とも友人とも訣別した主人公・ファイ(トニー・レオン)は、独り香港に戻る途上、台湾に立ち寄り、友人の家が営む屋台をひそかに訪ねる。そこで彼は、「世界の果て」にたどりついた友人の写真を見つける。だからといって再び友人に会える確証は全くない。恋人との関係は二度と元に戻らない。そんな状況であるにもかかわらず、彼は「会いたいと思えば、いつでも、どこでも会うことができる」と確信するのだ。何も確かなものはないというのに、不思議とあかるい、なにかが浄化されるようなエンディングだった。

 実際に会うことが不可能でも、自分の記憶の中や、誰かの思い出の中で「会う」ことはいくらでもできるのだ。
 個人的に色々あった時期にこの映画と出会って、随分と救われる思いをした。

 あれから6年が経った。
 「念ずれば思いは叶う」ということも、もしかしたら本当にあるのかもしれない。
 先日の、信じがたいような「5分間の再会」があってから、少しだけそう思うようになった。
 歳ばかりとって、相変わらずろくでもない毎日を過ごしていることに変わりはないけれど。
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by terrarossa | 2004-06-13 06:50 | 見聞録 | Comments(0)
2004年 06月 07日
ユジノサハリンスクからポロナイスクへ その1
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 2000年10月末。 
 函館発ユジノサハリンスク行きの便は、アントノフ24型機という古い小さなプロペラ機だった。これでもれっきとした「国際線」だ。
 機体後方の出入口に掛けられたタラップを上がっていく。薄暗い機内は、わざと寒々しさを強調しているのかと勘繰りたくなるような、うら寂しい青灰色に塗られており、古びた円い窓の周囲に打たれた鋲は、何度も塗装を繰り返した跡がついていた。ベニヤ板製の壁は、うっかり寄りかかろうものなら簡単に破れそうなくらい薄っぺらかった。さらに、カーテン生地のようなくすんだ色のシートは横幅に少しの余裕もなく、どう考えてもこの便を運行しているロシア人向けのサイズではなかった。前に並んでいた長身の乗客は、低い天井にぶつからないよう、不自由そうに腰をかがめて歩いていた。
 ほぼ定員いっぱいの、30人あまりの乗客達は、皆無言でぞろぞろと狭い機内へ進み、着席してゆく。西洋系と東洋系の割合は約半々。ツアー客を募集している夏ならともかく、間もなく冬を迎えようとするこの中途半端な時期に、独りでサハリンくんだりへ観光旅行に出かける物好きは滅多にいないはずだ。案の定、大半はビジネス客らしかった。
 短い滑走の後、機体は瞬く間に離陸した。ほっと一息つくかつかないかのうちに、機内食が配られたが、プロペラの振動のせいで、トレイがどんどんテーブルの前方にずれていく。時々トレイを手前に引きもどしながらの食事は、なんだか落ち着かない。

 ふと、後ろに座った二人の中年男性の話し声が聞こえてきた。どちらも日本人で、漁業関係者のようだった。日本とサハリンのビジネスは、水産業に関するものが多いと聞いている。二人は、水産加工会社との取引の事をしばらく話題にしていたが、ひとりが「そういえばね」と声の調子を変えた。
「こないだの遭難事故、まだ三人行方不明になったままでしょう」
「ああ、家族の方はお気の毒ですね」片方が相槌を打つように応えた。
「行方不明だと、生きているのか死んでるのかわからないから、かえって辛いんですよ。気の毒で、見ていられません」
「ええ」
「それほど沖合でなくたって、一日捜索にてこずったら、まず遺体はあがりませんね、このあたりでは」
「そうなんですか」
「いつだったかね、その時も二人行方不明になって、とうとう見つからなかったんです。私はね、そりゃ鱶にやられたんだろうなと思ってたんですよ。北の海は餌が少ないですから」
「津軽海峡にも、うようよしてますしねえ」
「いやそれが、違ったんですよ……その直後はタコが豊漁で、大きなのがたくさん水揚げされてね。で、解体したら、切ったタコの頭から、人間の髪の毛がいっぱい出てきたんだそうです。消化されないで体内に残るんだと言ってました。一番先に嗅ぎつけるのは奴らだったんですよ」
「鱶ではないんですか」
「ええ、だから誰か行方不明になると、そこではしばらくタコ漁はできないとか」
「いやあ、なんだかぞっとする話ですね」
タコの話はそれっきりで、二人は再び仕事の話を始めた。

人の髪の毛を溜め込んだタコが、この海のどこかにまだいる。彼らの話は本当だろうか?
プロペラ機は宗谷海峡にさしかかっていた。オホーツク海の白波が、低空飛行のせいかひどく間近に見えた。
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by terrarossa | 2004-06-07 05:02 | 見聞録 | Comments(1)
2004年 05月 23日
夜な夜なラジオを聴いていた
 1970年代後半から80年代前半にかけて、海外のラジオ放送を楽しむ、いわゆるBCL(Broadcasting Listener)ブームというのがあった。単に聴くだけでなく、受信報告書をラジオ局に送ると貰えることもある「ベリカード」を収集したり、遠方の局や地下局の受信に技術を駆使して挑戦したり、特定の国の放送局にハマってみたり。人によって楽しみ方は色々だった。インターネットの概念など、まだ無かった(か、一般には知られていなかった)時代である。
 小学校5年生の時、ある夜、部屋でラジオをいじっていたら、突然、妙なイントネーションの日本語で「こちらはKBS、ラジオ韓国です」というアナウンスが飛び込んできた。それが全ての始まりだった。
 そういえば近所の中学生が短波ラジオを持っていて、「海外放送ジュシン」とやらに熱心に取り組んでいた。彼らの間では、「SINPOコード」とか「ベリカード」とか、何やら意味不明の言語が交わされていたが、つまり、このことだったのか!
 自宅の部屋に居ながら、海外の生の声を直接聴くことができるという事実に、単純な自分はひどく感動し、瞬く間にBCLの虜となってしまった。とは言っても短波が受信できるラジオは、当時、ちょっと小遣いを貯めたからといって買えるような値段ではなかった。で結局、高校卒業までは中波ラジオで受信できる近隣諸国の放送を聴いては受信報告書を書き、放送局から送られてきたベリカードやカレンダーを眺めては、ひとり国際的感動(?)にひたっていたのだった。
 BCLにハマった頃は、冷戦真っ只中。モスクワ放送が枕詞のように「アメリカ帝国主義の謀略は……」などと繰り返していた。いつも軽めのポップスが流れているソ連の「マヤーク放送」が、ある日突然クラシック音楽ばかりになって変だなと思っていたら、書記長が亡くなっていたというニュースが後から報道された、なんて生々しいこともあった。

 80年代も半ばを過ぎ、BCLブームがすっかり下火になった頃、やっと短波ラジオを購入。長いアンテナを室内に張り、遠くの局を狙うようになった。そんなある日の深夜、とある周波数に合わせたところ、突然聞こえてきた妙なポップミュージック。や、確かに楽器も曲調も欧米ポップスのそれなのだが、なにか違う。微妙なアラビアン・テイストがそこかしこに漂っていたのだ。この絶妙なさじ加減ときたら、「エキゾチックな魅力満開の斬新さ」と「限りなくダサダサな田舎臭さ」との狭間でぎりぎりのバランスを保っているという感じ。もしかしたらこれは「欧米人がJ-POPを聴いた時に感じる心境」なのかもしれない。言語にしろ音楽にしろ、なりきっているつもりでも当人にはわからない微妙な違いというものはあるのだなあ、ということが非常にわかりやすく実感できた一件だった。ちなみに、この音楽を流していたのは、「アラブ首長国連邦の声・アブダビ」という放送局。
 この後、湾岸戦争が勃発するのだが、この時もニュースで大々的に報道されるより先に、いつも受信できていたラジオ・クウェートが突然受信できなくなるという異変があった。
 
 今や世の中は、インターネットで世界中の情報が個人で簡単に入手できる時代になった。アンテナ線を張り巡らし、フェージングと格闘しながら、耳ダンボ状態でやっとこさ情報を得るなどという非効率的な手段をとる必要はなくなったのだ。そりゃ便利になったとは思うけど、何だか味気ないし、まるで実感が湧いてこない。
 はるばる海を越えて届いてくる雑音混じりのご当地ポップスや、様々な言語のニュースをよく意味もわからないまま聞いていた時の方が、かえってナマの世界情勢を肌で感じていたような気がするのは、なぜなんだろうなあ。
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by terrarossa | 2004-05-23 04:41 | 見聞録 | Comments(0)