カテゴリ:映画( 20 )
2005年 01月 24日
2004年に見た映画
 1月ももうすぐ終わるというこの時期になって、やっと2004年に見た映画を振り返ってみることにした。
 昨年は長・短編あわせて約100本の映画をスクリーンで見た。うち70本は映画祭等のイベントで見たもので、一日3本、4本の「ハシゴ」をすることもしばしば。土日の遠出でまとめて見ざるを得ない状況だったので、これは仕方ない。

 見た映画の内、4割が韓国映画だった。
 公開数が多かったこともあるが、面白そうと感じるからつい見に行ってしまう。結果的に「当たり」も多かった。勢いがある証拠だろう。そのあおりを食ってか、中国語圏の作品の公開数が少なくなってしまったのが残念だ。もっと見たいのに……
 
 スクリーンで初見の作品から、印象に残った映画10本を選んでみた。

◆ロードムービー(韓国)
 このブログでも書いたように、まさかスクリーンで見ることができる日が来るとは思ってもいなかったので、感激もひとしおだった。エンディングの音楽とラストシーン、エンドロールが恐いほどぴったり合って鳥肌もの。DVDで何度も見たはずなのに、またしても魂を抜かれた。会場内のあちこちから聞こえるすすり泣きで我に返る。

◆ビーイング・ノーマル(韓国)
 「韓国インディペンデント映画2004」で上映。男女両方の性を持つ友人との関係を赤裸々に描いたドキュメンタリー。衝撃のあまり、見た後はしばらく声も出なかった。両性具有者の「J」と大学で出会った監督は、「J」と共に過ごし、見つめ、話し合い、そのアイデンティティーを「わかろう」としてもがく。カメラの前でぶつかり合い、傷つけ合う二人。彼女は、破綻しかかった「J」との関係をもてあました挙げ句、撮影途中で一時「逃亡」してしまう己の弱さまでさらけ出している。ジェンダーとは何だろう。「ノーマル」とは、一体なんなんだろう。

◆エレファント(アメリカ)
 感想は以前書いたとおり。ほとんど予備知識もない状態で見て「はまった」作品。繰り返されるたどだどしい「エリーゼのために」が耳について離れない。

◆オアシス(韓国)
 噂には聞いていたが、噂通りだった1本。あまたの映画評、感想等で語り尽くされているとおりで言うこと無し(←めんどくさがるなよ)。

◆鉄西区(中国)
 かつて栄華を誇った瀋陽の重工業地帯と、そこに生きる人々を撮った9時間あまりの超大作ドキュメンタリー。腰や尻が痛むのも忘れ、身も心も「鉄西区」にもっていかれてしまった。中国はどこもかしこもスクラップ&ビルドなのか。過去を振り返る余裕なく、追いつけない者をかえりみることなく、ただ前へ前へ進んでゆくのみ。

◆スクール・オブ・ロック(アメリカ)
 理屈抜きで楽しめた1本。「ブラス!」や「花咲く春が来れば」のような楽団もの(ちょっと違うか?)の映画だが、バンドを指揮するリーダーが「いい人」じゃないところが良かった。終わり良ければ全て良し。ジャック・ブラック最高!

◆悪い男(韓国)
 なんだか巷では賛否両論のようだ。キム・ギドク作品はこれが初めてだったが、セックスに対する非常に強い執着を感じた。この手の作品はあまり好みではないのだが、なぜかこれはずどんときた。一種のファンタジーと受け取ったがどうか。主人公を演じるチョン・ジェヒョンの存在感が凄い。

◆パイラン(韓国)
 新作ではないが、「第14回にいがた国際映画祭」で初めて見た。そして映画祭から帰った後、DVDを即、注文。
まさにチェ・ミンシクの、チェ・ミンシクによる、チェ・ミンシクのための映画。彼がひとりむせび泣くシーンは、後世に残る名場面だろう。清らかなセシリア・チャンも良かったが、チェ・ミンシクの相棒を演じたコン・ヒョンジンがとても印象的だった。この人は実に色々な作品に出ているので、その活躍を見るのが楽しみな一人だ。

◆ジョヴァンニ(イタリア)
 「黒隊のジョヴァンニ」こと、ジョヴァンニ・ディ・メディチを描いた作品。ジョヴァンニはフィレンツェの名門、メディチ家の出身で、母親は「女傑」と呼ばれたカテリーナ・スフォルツァ。高校の頃、中世~ルネンサンス期のヨーロッパが好きで、関連資料や本を読みあさっていた時期があったので、なつかしい思いで見た。この映画については、後で書いてみたいと思う。

◆父、帰る(ロシア)
 ロシアに惹かれ、都合3回も訪れているのだが、そういえばロシア映画をちゃんと見たことはなかった。「父、帰る」は、様々な暗喩に満ちた映画だった。どこまで理解できたのかは極めてあやしいところだが、かつて実際に足を運んだ甲斐あってか、ロシア独特の「空気感」のようなものだけは、リアルに受けとめることができた。またロシアへ行きたくなってしまった。物語の舞台になったのはサンクト・ペテルブルグの北にあるラドガ湖だそうだが、そこまで車で何日もかけて行く彼らの家は一体何処なんだろう?地図を広げてあれこれ考えてしまう。架空の町かもしれないのに。

 こうしてみると、どーんと腹にたまりそうなシリアス作品ばかりだなあ(スクール・オブ・ロックは別として)。そして韓国映画強し。2005年はどうなるのか?
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by terrarossa | 2005-01-24 06:50 | 映画 | Comments(1)
2005年 01月 14日
ロードムービー(2002、韓国)
a0021929_761687.jpg 中国語圏の映画を沢山見るようになっても、距離的には近くであるはずの韓国映画にはしばらく興味がなかった。ハングル文字が全く読めない。日本においては、なぜかカタカナで表記される監督や俳優の人名がなかなか覚えられない(漢字表記もあるはずなのだが)。たったこれだけの理由で、韓国映画はなんだか遠い存在だったのだ(今も名前を覚えるのは苦手だ)。
 そうこうする内、2001年あたりから、いわゆる「韓流」のほのかな兆しはひたひたとやってきて、特に意識せずとも韓国の情報が入ってくるようになる。「ロードムービー」は、韓国では特にタブーとされている「同性愛」という題材を扱っているということで、製作段階から話題になっていた。丁度、同性愛を描いた中国(香港)の映画「藍宇」にいたく引きずり込まれていた時期と重なっていたため、「じゃあ韓国ではどうなのよ」という好奇心も手伝って、気がついてみたら、連日韓国webサイト漬けになっていた。かくして、自分の中で何となく敬遠していた「韓国映画への道」は、さしずめ「けもの道」と言っていいようなこの映画からスタートしたのだった。多分。

 物語は、暗い室内で行われる男同士の激しいファックシーンから始まる。
 同性愛者である自分を否定できず、家族も登山家としての地位も捨て、ホームレスとなったデシク。彼は行きずりの男を抱く。だが、どんなに激しく交わっても、相手を変えてみても決して満たされない、ただ排泄するためのセックスがあるだけだ。生きる意味もなく、行くあてもない。ある日彼は、ソウル駅で泥酔していた証券ブローカーのソクォンと出会う。ソクォンは株の暴落で何もかも失い、傷付き、自暴自棄になっていた。何度も自殺を図るソクォン。デシクは、そんなソクォンを連れてソウルを離れ、あてのない旅に出ることにした。
 旅の途中、ふたりは、コーヒーの配達をしながら、時には自分の体も売る、イルチュという女と出会う。イルチュは、海で溺れかけていた所を救ってくれたデシクを本気で愛するようになる。だが、デシクは彼女の気持ちに応えるつもりはなかった。彼が密かに愛していたのは、ソクォンだったから。そのソクォンは、デシクの秘めた想いをまだ知らない。何かと世話を焼いてくれるこの親切な男が、まさか自分に恋愛感情を抱いているなどとは露ほども思っていない。
 旅を続ける内、デシクが同性愛者であることを知ったソクォンは、彼を卑下し、軽蔑する。だが生活力のないソクォンは、結局はデシクから離れられない。イルチュと訣別したふたりは、激しい葛藤をそれぞれの胸の内に秘めたまま、「旅の終わり」へと向かう……

 あらすじを書きながらげんなりしてしまうくらい、辛くやりきれない話である。しかも冒頭いきなり生々しいファックシーンだからなあ。こりゃ客は入らねえや、と納得(オイオイ)。 
 その上、全編に渡って、ありえねーよ!だの、なんでこうくるかなあ?などなど、突っ込みどころ満載。それがかえって不思議な寓話性を感じさせる効果があるのだ、と言われればそうなのだが。
 妙な迫力をもって、監督を始めスタッフや俳優の並々ならぬ意欲、愚直なまでに真摯に作品に打ち込もうとする姿勢は伝わってくる。ひしひしと。が、特に前半、キャリアの浅い新人監督のこと、一生懸命さが上滑りしてごっちゃごちゃ。あれも入れたい、これもやりたい、と人物もエピソードも詰め込みすぎて、訳がわからなくなっている。
 ところが、後半へいくに従って、どんどん余計なものが削ぎ落とされて、驚くほど洗練されていくのだ。一つ一つのシーンが、ひどく印象的で、そして美しい。たとえ泥の中で溺れているような光景であってもだ。
 極めつけはラストシーンだ。
 映画の「シメ」というものがいかに重要か、あらためて認識することになった。数々の突っ込みやらもどかしさやら苛立ちやらが全て帳消し、何もかも吹っ飛んでしまった。この最後の場面を見るために自分は生きていたのか!

 重く哀しい結末と、あまりにもあかるい空の色との強烈なコントラストが、痛い。
 何かが澱のように自分の中へどんどん溜まっていって、息苦しさにむせかえって、しばらく何も出来なかった。重い余韻を以後も延々とひきずって、社会復帰(?)が大変だった。その後遺症は長いこと続いていて、ふっと気を抜くと、つい「あっち」へ行ってしまいそうになることがある。危ねえ。
 もうすこし時間が経った今は、あれは、彼らなりのハッピーエンドだと思えるようにもなった。うつし世では、ほんの一瞬も交わることがなかったはずの、ふたりが置かれた境遇を考えれば……

 監督はこれがデビュー作のキム・インシク。キャストは、デシク役に舞台俳優のファン・ジョンミンと、ソクォン役にTV俳優のチョン・チャン。いずれもキャスティング時点では、映画でのキャリアはほとんど無い新人だった(実は、主演として当初発表されたのは、ハン・ジェソクとキム・ヨンホという俳優だったのだが、どういう事情か二人とも降りてしまった)。製作はサイダスで、かなり気合いを入れて宣伝していたように思う。
 2002年10月、韓国で公開された「ロードムービー」は、結論から言えば、「惨憺たる興行成績」。ただし、批評家筋の評判は良く、俳優陣の熱演も認められている。デシク役を演じるために、実際に一週間、ソウル駅でホームレスとして過ごしたというファン・ジョンミンは2002年の青龍映画賞の新人男優賞を受賞している。
 ファン・ジョンミン演ずるデシク役が素晴らしいのは言うまでもないことだが(初「ファン・ジョンミン」が、この映画でのマッチョな髭面の元・登山家役だったので、その後知った素の彼とのあまりの落差に、驚愕も十倍増しだった)、キャラクターとしては、孤高の人であるデシクよりも、チョン・チャン演じるソクォンがあまりにもリアルで、こっちのほうにどっぷり感情移入してしまった。
 このソクォンというのが、どうしようもなくずるくて、卑屈で、だらしなくて、煮え切らない「やな奴」。彼を愛していながら、最後まで自分から抱こうとはしなかったデシクに対して「今までの恩を考えたら、十発くらいは必要かあ?」などと言ってしまうような、最低の男である。
 この人物に対して、ただ不快な気持ちになるか、それとも、「ソクォン」は自分の中にも居るのだ、という「事実」を認めるかどうかで作品に対する印象が全く変わってくるのではないか、と思うところである。
 ソクォンを演じたチョン・チャンはどんな気持ちで、この「現実的な人物」と向き合ったのだろう。
 自分とかけ離れた役をそれらしく演ずる困難さよりも、メンタル的にはずっと辛かったんじゃないだろうか?(そのことと関係あるのかどうか不明だが、彼は、この映画の撮影直後、大麻吸引容疑で逮捕されている)。
 
 そんな映画だから、日本での上映は難しいだろうなあと思っていたのだが、2004年3月、シアターイメージフォーラムでの「韓国インディペンデント映画2004」と同年7月の「第13回東京レズビアン&ゲイ映画祭」で上映され、日本語字幕での鑑賞が叶った。ああ「韓流」、ありがたや。
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by terrarossa | 2005-01-14 07:24 | 映画 | Comments(3)
2004年 12月 22日
ワイキキ・ブラザース(2001、韓国)
a0021929_1123879.jpg なにやら南国ムード溢れるタイトル。DVD(韓国版)のパッケージ画像は、チョアー!ってな感じのリュ・スンボムを前面に、グループサウンズ風ひらひら衣装のバンドメンバーたちがにこにこ微笑んでいる。なんとも明るい雰囲気に、音楽コメディ映画なのかしらん、と予想してみたりする。
 ……全然そんなんではなかった。夢破れ、中年にさしかかった大人たちの、苦い苦い現実をリアルに描いた物語だったのだ。や、確かに、ロス・ロボスの「ラ・バンバ」なんぞが高らかに歌い上げられたりするから、もうちっと救いようのある話かと思っていたのだが。
 パッケージのリュ・スンボム君大フューチャーは、せめてポスターだけは軽め・明るめにしようという宣伝上の配慮だったらしい。

 この映画は、日本では2001年の東京フィルメックス、2002年のあいち国際女性映画祭で上映されたのだが、見逃してしまった。その後の公開はなく、韓国版DVDを購入して見た。ついでにサントラも手に入れた。
 
 音楽で生きていくことをめざし、念願どおりプロとなったソンウ。しかし現実は厳しく、彼はうだつの上がらない三流バンドのリーダーとして、ドサ回りの日々を続けていた。三十代も半ばにさしかかったというのに、安宿に共同で寝泊まりし、まともに食べていくことすら危うい生活。そんなある日、高校卒業以来、一度も帰っていなかった故郷にあるナイトクラブからお呼びがかかり、彼は15年ぶりに昔の友人たちと再会した。 
 高校時代、いちばん輝いていた季節の思い出がふと甦る。ミュージシャンに憧れ、仲間と練習を重ねた日々。同じ町のガールズ・バンドには、とびきり上手いボーカルの子がいた。彼女は初恋の人だった……
 だが、旧友たちは皆、とうに音楽への夢をあきらめ、順調とは言い難い毎日の生活に追われていた。
 しぶとく夢を追いかけて音楽を続けているはずのソンウも、状況は彼らと同様だった。思うような音楽活動ができない現実に耐えかねて、一人また一人と、メンバー達はバンドを離れていく。
 
 地方の田舎町での日常をどんよりと過ごす大人たちを、丁寧に、リアルに描いている。濃いキャラクターを登場させてみたり、明らかにコメディを意識して、コミカルさを狙ったとおぼしき場面が頻繁に出てくるが、あまりにもやるせない状況ゆえに、そのもくろみが全く成功していない。なのに、不思議と笑えたりもする。渦中の人間は大真面目に足掻いているのだが、かえってその必死さがどうしようもなく滑稽で、もう笑うしかない、そういう感じだ。ああ、これは「自嘲」ってやつなんだな、と思い至るのにさして時間はかからなかった。物語と、自分の今いる位置がダブって見えるがゆえの嘲笑だ。だって、不況にあえぐ地方の町、という構図はここと変わらないのだ。農協まつりなんて、雰囲気も内容も全くおんなじじゃないか(ミスコンが「ミス・とうがらし」というのが、韓国ならではだけどさ)。ムード歌謡全開バリバリの田舎のカラオケスナックも、温泉旅館のナイトクラブも、まさにあれだ。あんまり似すぎて唖然としたよ。
 物語はとことん泥臭くみっともなく、この世の無常さを説いているのだけれど、ラストシーンにほのかな希望が感じられたのが救いだ。そう、さして良くはならないし、もっと悪くなったりするかもしれないが、それでも人生は続いていくのだ。
 しかし、韓国の人たちはよく飲むなあ。画面からアルコール臭が漂ってきそうだ。

 特筆すべきは、キャスト陣の豪華さ(?)だ。無名俳優を起用し、二枚目は誰一人として居ない。が、その出演者の多くが、今や様々な作品で、個性派俳優として活躍している。こんな顔合わせはもう二度と実現しないんじゃないだろうか?イム・スルレ監督の眼力、恐るべし。
 主人公、ソンウを演じているのは舞台出身だというイ・オル。ナイトクラブで、酔っぱらったオヤジたちがホステスのオネエちゃんを裸にし、さらに自分たちもすっぽんぽんになった挙げ句、ギターを演奏していたソンウに「おまえも脱げやー!」と脱衣を強要するシーンが、とりわけ印象的だった。素っ裸にされてもなお、辛気くさい表情のまま淡々とギターを弾き続ける「裸ギター兄貴」(←一緒に映画を見ていた友人が命名)、イ・オルの強烈なインパクトたるや。圧巻の一言である。
 彼は「純愛中毒」でイ・ビョンホンの兄役を演じ、「春の日のクマは好きですか?」でも最後、わずかな出演シーンながら強い印象を残した。「ワイキキ・ブラザース」ではうらぶれた寡黙なミュージシャンを見事に演じているが、最近の出演作であるキム・ギドク監督作品「サマリア」での刑事役も、非常に高く評価されていると聞く。今から公開が待ち遠しい。
  ソンウの少年時代を演じているのが、「殺人の追憶」や、「嫉妬は我が力」での演技が認められ、今や若手のホープと言われているパク・ヘイル。これが映画デビュー作らしい。
 涙もろいドラマーのカンスは、やはり舞台出身のファン・ジョンミン。彼はもともと歌って踊れるミュージカル俳優で、ドラムもこの映画のために特訓してマスターしたそうだ。「ロードムービー」、「YMCA野球団(日本版DVDタイトルは「爆烈野球団!」)」と、出演作を立て続けに見たのだが、作品ごとに全く雰囲気が違っていて、まるで別人。もはや「驚愕」の域だ。先頃ロードショー公開された「浮気な家族」にも、主人公ムン・ソリの夫役で出演している。
 この映画で唯一はじけている金髪頭のにいちゃん、ギテ(ナイトクラブのウェイター)を演じているのはリュ・スンボム。シンセサイザーのちゃらい自動演奏をバックに、調子っ外れな歌を歌いながらくるくる踊っている彼は、まさにオアシスのような、「癒し系」のキャラクターだ。
 「品行ゼロ」では、前時代的な少年漫画のキャラクターみたいな役だった。でも、このひとの場合は、「ムッチマ・ファミリー」で演じていたホテル従業員のような、どっかネジが外れていて、すっとぼけた感じの役の方が合っている。そこにいるだけでおかしくて笑える。そういう意味で、すごく存在感のある俳優だと思う。
 バンドにさっさと見切りをつけて、物語前半で姿を消してしまうサックス奏者を演じたオ・グァンロクは、なんと「オールド・ボーイ」の冒頭に出てくる、犬を抱いた自殺志願の男であり、「春の日のクマは好きですか?」ではペ・ドゥナの父親役(浮世離れした、妙ちきりんなオヤジだった……)を演じていた俳優だった。このひとも相当な曲者に違いない。

 イム・スルレ監督の近作は、間もなく日本公開が予定されているオムニバス映画「もし、あなたなら~6つの視線」の中の1本。太った女性がいかに差別されるかということを描いたきっついブラックコメディで、これも明らかに笑いの種類は「嘲笑」。にもかかわらず、卑屈さや、馬鹿にしているような感じが全くないのは、監督が、登場人物と自分とを同じ位置に据えて映画を作っているからだろうか。クリエイターにありがちな、別の高みから見下ろしているような傲慢な視線は微塵も感じられない。
 映画には監督本人の登場シーンもちょっとだけあり、出演者に「えっ、あの太ったおばさんが監督?」という台詞を言わせたりしている。こういう映画監督はあまりいないような気もする。かっこいいよ、姐さん。
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by terrarossa | 2004-12-22 01:43 | 映画 | Comments(5)
2004年 12月 15日
カップ・ファイナル(1991、イスラエル)
a0021929_1183699.jpg 舞台は1982年のレバノン。イスラエルの兵士、コーエンは、念願だったワールドカップ(サッカーワールドカップ・1982年スペイン大会)のチケットを手に入れ、まもなく迎える除隊の日をうきうきと心待ちにしていた。ところが、除隊直前に始まったレバノン侵攻に参加させられた彼は、PLOのゲリラの襲撃を受け、捕虜になってしまう。ゲリラたちはPLOの本拠地、首都ベイルートへ向かう。徒歩で廃墟を転々としながらの移動のさなか、コーエンとゲリラのリーダー、ジアドは、ふとしたことで互いにサッカーファンであることを知る。しかも贔屓は同じイタリアチーム。ほのかな友情が芽生えた瞬間だった。
 彼らは道中、ひまつぶしにサッカーをしたり、立ち寄った家で、その家の結婚式に参加したり、開催中のワールドカップの試合を仲良くテレビ観戦したりするようになる。
 とはいえ、彼の「捕虜」という立場は変わらない。ゲリラのメンバーの中には、「憎きユダヤ人」の彼に虐待を加えようとする者もいるし、少しでも不審な行動をとれば、すぐに銃口が向けられる。トイレの紙も与えられなかった(これは虐待というより、アラブ人が紙ではなく、左手を使うという習慣のあることが関係しているのだと思う)。困り果てた彼が尻を拭くのに使ったのは、財布に入っていたワールドカップのチケット3枚のうちの、2枚だった。
 幾人かの犠牲者を出しながらも、彼らはついに首都ベイルートに到達する。だが、既にイスラエル軍は街を包囲していた。ジアドはコーエンに、自分たちと別れて仲間のもとへ帰るよう伝えた。コーエンは、1枚だけ残っていたワールドカップのチケットを友情の証としてジアドに手渡した。それは今まさに行われている決勝戦(カップ・ファイナル)のチケットだった。
 夜の闇にまぎれ、非常線を突破しようとするゲリラたちに、容赦なく銃撃が加えられる。ワールドカップ実況中のテレビには、優勝したイタリアが賞杯を受け取る瞬間が、歓喜の雄叫びを上げるマルコ・タルデリの姿が、映し出されていた……
 
 かつて、NHK教育テレビに「アジア映画劇場」という、日本ではあまり知られていないアジア地域の映画を放映してくれる番組があった。数多くの未公開映画を、全国どこに住んでいても日本語字幕付きで見られる貴重な機会だっただけに、放送終了してしまったことを非常に残念に思う(その後、アジア以外の地域も対象とした「シネマ・フロンティア」という後発番組があったのだが、どうやらそれも終了してしまったらしい)。
 「カップ・ファイナル(Cup Final)」(Eran Riklis エラン・リクリス監督)は、今から10年ほど前に「アジア映画劇場」でたまたま見た映画だった。なぜかひどく印象に残り、もう一度見たいと思っていた。が、内容はと言うと、華やかさゼロで、出てくるのは濃い系ひげ面の男ばかり。敵同士が友情を結ぶという点は韓国映画「JSA」と同じだが、イ・ヨンエに当たるキレイドコロは出てこない。派手なドンパチも恋愛沙汰もエロも皆無。個人的には、まさにその点こそが気に入ったし、よくできた作品だと思ったのだが、そういう地味な映画が一般受けするはずもない。日本においては、1994年のイスラエル映画祭で上映されたという記録は見つけたが、その後、公開もビデオ化もされた様子はない。もう一度と願ったところで、これは無理だな、とすっかり諦めていた。
 ところがつい先日、アメリカでDVDになっていることを知り、即購入。思いがけず再び見ることが叶ったのだった。
 だが、アメリカ版DVDゆえ、ヘブライ語とアラビア語の会話部分には英語の字幕がつけられていたが、英会話部分には当然何もなし。母語の違うユダヤ人とパレスチナ人は英語で意志疎通をはかっていたので、肝心なやりとりの部分だけ字幕がない、という悲惨な状況(TдT)←珍しく顔文字。理解不能の部分があまりにも多く、見終わらない内に、危うく挫折しそうになった。

 エラン・リクリス監督は1954年生まれでエルサレム出身。数多くのコマーシャルフィルムやドキュメンタリーを製作していく中、長編映画を手がけるようになったという。なお、彼の最新作「Syrian Bride」は、2004年のモントリオール世界映画祭でグランプリを受賞している。
 イスラエル映画については、エイタン・フックス監督の「Yossi & Jagger」と、先日東京フィルメックスで上映した、アモス・ギタイ監督の「プロミスト・ランド」くらいしか見ていないので、かの国の映画事情はよくわからない。ただ、見た映画の3本とも、自国の抱える矛盾や問題点をあえてさらけ出して作品にしようとする、作り手の強烈な意志を感じるものだった。
 「カップ・ファイナル」は、戦争のばかばかしさや残酷さを、かなり直裁に描いた作品と言える。にもかかわらず、重すぎず深刻になりすぎてもいないのは、サッカーという題材をうまく使っているからだろう。サッカーはまさに世界のスポーツなのだな、と思った。球状の蹴るもの(ボール)と、枠囲みのゾーン(ゴール)があればいいから、貧しくてもなんとかなる。しかも、みんなで楽しめる。言葉はいらない。理屈もいらない。戦場で突然出会った敵同士であっても、同じサッカーファンで、贔屓のチームまで一緒なら、友情を感じたってちっともおかしくはないのだ。
 
 この映画に変化球は使われていない。予想したとおりのラストシーンが待ち受けている。だが、それがわかっていながら、いや、わかっているからこそ、やりきれない。
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by terrarossa | 2004-12-15 01:35 | 映画 | Comments(2)
2004年 12月 05日
「似水柔情」 ~映画「東宮西宮」原作小説について
a0021929_9391861.jpg 映画「東宮西宮」は、「似水柔情」という小説をもとに作られた作品である。
 原作小説の作者、王小波は、現代中国の有名な作家で、1997年、45才という若さで亡くなっている。彼の妻、李銀河は社会学者で、80年代の終わりから90年代にかけて、中国の男性同性愛者についての著作をいくつか発表しており、このことが王小波の創作活動に影響を与えたようだ。

 ということで、中国語の原作小説「似水柔情」を辞書首っ引きで、蟻の歩みの如くじりじりと読み進めたのだが、小説と映画とでは、肝心な点が全く違っていた。
 
 小説は、警官・小史が、アラン(阿蘭)が香港から送った郵便物を受け取ったところから始まっている。
 封筒の中身は薄い一冊の本だけ。映画では、彼がアランから本を受け取った後、あの「長い一夜」を迎えるという構成になっていたが、原作では、「あの夜」が終わって一年後に、アランから本が送られてくる。アランが書いたという本の内容は、映画にも出てきた「女賊」の話。そして物語は、小史が送られてきた本をめくりつつ、アランとのことを回想する、という形式で進んでいく。
 原作のアランは年若い警官の小史よりも十歳ほど年長の人物として設定されており、この点も映画とは違う。もし原作を忠実に再現するとしたら、アラン役はレスリー・チャン以外には考えられない(←単なる自分の思いこみである)。ちなみに、実際のレスリーも「東宮西宮」のこの役に興味を示したという記事を見たことがある。
 映画との最大の相違点だが、それは「あの夜」に小史とアランが最終的な肉体交渉を持つに至っている所。そして、そのことによって、小史が自らを同性愛者であると認める点である。
 「相違点」という表現を使ったが、却って映画の後日譚と解釈した方がしっくりくるのかもしれない。なぜなら小史はアランと別れた後になって、アランを愛している自分に気付く、とあるからだ。
 映画では少ししか登場してこなかった「公共汽車(バス)」という女性は、小説では「アランの妻」として、キーパーソンとでも言うべき重要な役割を担っている。アランの最大の不幸は、「公共汽車」を本当に愛してしまったこと。しかし、やがてアランは小史という運命の男と出会ってしまう。小史と肉体関係を結んだ翌朝、帰宅したアランは、「あなたは私を愛していない」と泣く妻に対して、ただ「体液を排泄」するためだけのセックスをする。昨夜小史が自分にしたのと同じように。
 かたや小史は、別れたアランへの想いがつのる一方(肉体関係を結んだ時点では、小史はアランのことを全く愛していなかった。ゆえに、二人は別れてしまう)。アランから届いた郵便物に手紙も何も入っていなかったことに落胆し、小説の内容が「彼らの愛を描いたもの」ではなく「ただの歴史小説」だったことに失望する。
 そしてある夜、勤務中の小史の元へ一人の警官がやって来て、彼の解雇を言い渡す。「同性愛者はこの職務に不適格である」と。派出所を追い出された小史。もう家に帰るつもりはなかったが、かといって行くあてもなく、眼前には夜の闇が果てしなく広がっているばかり……という、映画で胡軍が演じていた人物こそ小史、と刷り込まれていた者にとっては、ある意味衝撃的な結末が待ち受けている。

 原作小説を読んでみてあらためて思ったのは、「東宮西宮」という映画の完成度の高さだった。あえてギリギリのところまで削りに削った作り方をしており、そのストイシズムにこそゾクゾクしたのだが、原作小説の世界が持つ奥行きの深さを知って、また映画の魅力が増したという感じだ。同じでいて、違っていて、面白い!というところか。
 原作小説は、映画を見た人にとって、他にも「おおっ」と思わせるような小ネタが随所にあって楽しめると思う(なんと「ラーメンを食うシーン」は原作にもちゃんとあった!ということは、あれは原作に基づく正しいシーンなのだな)。いや、「楽しめる」ほどの語学力が自分にもあれば……燃える下心(!)で全力疾走しても、いかんせん限界というものが。

 今、手元にあるのは、「時代文芸出版社」出版(中国・長春)の「地久天長-王小波小説劇本集」というタイトルの本だ。これは中国書籍を扱う日本の書店からインターネットを通じて入手した。インターネットって素晴らしい。
 この本には、十編の短編小説と共に小説「似水柔情」と「東宮・西宮」電影劇本(映画の脚本)、そして「東宮・西宮」話劇劇本(舞台劇の台本)が収められている。
 なお、電影劇本および話劇劇本は、張元(映画「東宮西宮」の監督)との合作である、とある(電影劇本は、ざっと読んだところ、完成した映画とはまるで違っていて、撮影中に相当の修正を加えたようである)。
 それにしても、舞台劇の台本が別にあったとは驚きだった。
 既に1998年の映画封切り当時(於日本)、「東宮西宮」は舞台版もあり、警官役は映画同様胡軍が演じ、ヨーロッパで公演を行ったらしい、という噂をウェブ上で目にはしていたものの、真偽がわからぬまま、自分の中で迷宮入りしていたのだった。
 舞台劇版があった、というのは幻じゃなくて本当だったんだと、台本という実物を目の当たりにして、ひしひしと実感した次第である。
 そうとなれば胡軍の生・舞台公演を見てみたかった!という、今となってはどうにもならない願望が募るばかり。
 あー、日本でアンコール公演してくんないかなあ、などと、無理を承知で妄想してみたりする今日この頃である。
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←警官がラーメンを食べるのに使っていた容器はこんなんだった。
 ハルビンで購入。
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by terrarossa | 2004-12-05 09:43 | 映画 | Comments(0)
2004年 12月 05日
東宮西宮(1997、中国)
↓USA版DVD(英語字幕)
a0021929_213371.jpg 1997年、カンヌ映画祭の「ある視点」部門に出品された一本の映画「東宮西宮」。監督は、新進気鋭の中国人、張元(チャン・ユアン)。ところが、同性愛を真正面から扱ったという内容が当局の怒りを買い、パスポートを取り上げられた監督は映画祭に参加出来なかった。この事件は、カンヌから遠く離れた地に住む、自分のような一般人の耳にも入ってくるくらいだったのだから、相当物議を醸したのだろう。
 日本では、第11回福岡アジア映画祭(1997年7月)、第7回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(1998年5月)を経てロードショー公開された。

 鈍色の、寒々しい公園の中を、ゆっくりと、舐めるようにカメラが移動してゆく。舞台は天安門広場脇にある公園だ。公園は、この当時の中国においては「いないことになっている」はずの同性愛者たちが、密かに相手を見つけるための出会いの場、いわゆる「ハッテン場」となっている。
 しかしここでは、そのような行動は風紀を乱すものとして取り締まりの対象になる。そんな中、主人公のアランは、警官・小史と出会う。「派出所に連行される同性愛者」と「尋問する警官」という立場で。
 捕らえられたアランはしかし、ひとすじの動揺も畏れも見せない。そして、静かに同性愛者としての自分の人生を語り始める。
 彼を捕らえたのは警官の方だ。この生意気な変態性欲者は自分の支配下にある。罵倒し殴ることも、足蹴にすることも、思いのままだ。
 だが警官は、アランの語りに否応なく引き込まれていく。そしていつの間にか、心理的な立場が逆転していることに気付く。アランの紡ぎ出す言葉に、なす術もなく絡め取られていくのを感じ、たじろぐ警官。アランが語る過去の「男」の姿が、警官の中で自身に変容していく。馬鹿な。捕らえられたのは、魅入られたのは実は俺の方なのか?
 あまつさえアランはまっすぐ警官を見据え、「あなたを愛している」と告白するのだ。だが無論、それを認める訳にはいかない。追いつめられた警官は、アランに対して(おそらくは性的に)強く惹かれている自分を黙殺するべく、混乱の中でひとつの決断をする。俺は異性愛者だ。俺がこの忌々しい変態の「病気」を「治して」やらなくてはいけない、と。

 物語の大半は、夜の派出所という狭い空間の中で展開される。息詰まる心理劇のような構成は、さながら舞台劇のようである。相反するようだが、非常にストイックで、そして、ぞくぞくするほどエロティックな作品だ。
 おびただしい鳥や虫の声、遠くから聞こえてくる街の喧噪、したたる水の音。闇の色を溶かす派出所のあかり。とりわけ夜の描写が素晴らしい。次第に空が白んでゆく明け方の風景が息を呑むほど美しい。
 主役二人の抑えた演技、一転して息を呑むクライマックスの激情、明るさとかなしみがないまぜになったような、奇妙で複雑な終焉。ラストシーンの衝撃は、いまだもって忘れることができない。公開中、憑かれたように5回、6回と映画館に足を運び、ビデオ(ビデオ版の邦題は「インペリアル・パレス」)を購入し、繰り返し繰り返し見ても飽きたらぬほど、この映画にはまりこんだ。まさに沈没状態である。2003年3月に、公開から5年経って初めてリバイバル上映(於東京・新宿武蔵野館)があったのはとても嬉しい出来事だった。久しぶりに大スクリーンでの「東宮西宮」を堪能することができた。

 二人の主役の演技が素晴らしい。
 アラン役の司汗(スー・ハン)(←日本版では「シー・ハン」と表記されているが、北京語の「司」はピンインで「si」と表記するため、読み違えたものだろうと推測)は、プロの俳優ではなく、元々は張元チームのクルーだった所を主役に抜擢されたとのこと。鬼気迫る堂々とした演技と、圧倒的な存在感はとても素人とは思えない。「東宮西宮」出演後、ぱったり消息が途絶えている彼のことが気になって色々調べたところ、ヨーロッパのサイトで彼のインタビュー記事や、その後の消息についての記述を見つけることができた。
 現在、彼はスウェーデンの大学で、美術史の研究者として教鞭をとっている。元々俳優志望だったそうだが、当時の中国で、彼のような華奢で小柄な男性が俳優になるチャンスは無かった。彼は研究者の道を選び、二十四歳だった「東宮西宮」撮影時には、既にスウェーデンに移住することを決めていたという。つまり、「東宮西宮」は、彼の俳優として最初で最後の、全身全霊をかけた作品だったのだ。
 警官役の胡軍(フー・ジュン)は名門・北京中央戯劇学院出身の俳優。一方的に語る「攻め」のアランに対して受け身のポジションにあり、極端に制限された動きの中で心理的変化を表現しなくてはいけない、という難役を見事に演じている。「東宮西宮」撮影時は二十八歳(にはとても見えねー!)の、まだ無名の舞台俳優だったが、それから数年後、スタンリー・クワン監督の映画「藍宇」に陳捍東役で出演し、映画の成功と共に瞬く間にスターダムの階段を駆け上がっていった。最近日本公開された香港映画「インファナル・アフェアⅡ」にも、アンソニー・ウォンの上司役として出演している。
 「東宮西宮」公開当時、あか抜けない風貌にもかかわらず、立ち姿が異様に格好いい警官役の俳優が気になって気になって仕方なかったが、出演俳優に関する情報は全くと言っていいほど無く、以後3年ほど悶々とする羽目になった。その彼が、またしても同性愛を扱った映画(「藍宇」)に出演したと知った時の衝撃たるや。今やメジャー街道まっしぐらの彼であるが、これからも様々なタイプの役柄を演じてほしいところである。
 
 最後に。
a0021929_1718128.jpg 2002年、念願叶って北京へ行くことができた。滞在した3日間の大半を、「東宮西宮」ロケを行ったという天安門脇の中山公園と労働人民文化宮を彷徨うことに費やしたのだが、折しも急速な経済発展を遂げている中国。あっちこっちで古いものががっつんがっつん破壊され、どんどん街が変化している渦中にあって、トイレはぴかぴか、公園の遊歩道は工事中。「東宮西宮」撮影時の面影はほとんど残っていなかった。
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by terrarossa | 2004-12-05 09:31 | 映画 | Comments(0)
2004年 11月 10日
なんで映画を見るんだろう
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初めて映画館へ行ったのは、高校2年の時だった。
それ以前に映画館で映画を見た記憶は無い。

次に映画館へ行ったのは、大学進学のため首都圏へ引っ越してからだった。
そこで初めて単館公開の、いわゆる「ミニシアター系映画」の存在を知った。

就職のため、再び地方での生活に戻ることになった。
何度かの転勤を経て、今は、最寄り映画館まで約50㎞というところに住んでいる。

7年前に中国語圏の映画にはまりこんで以降、見る映画の本数が格段に増えた。
地元では主にハリウッド系の作品しか公開されないから、鑑賞料金の10倍近くの交通費をかけて東京まで行くようになった。
とはいえ、あれもこれも見たいと思ったところで、かかる金と時間が半端じゃないから、たいした本数は見ていない。

映画を見ている内は現実を忘れられる。自分のことや仕事のことを考えなくていい。
現実逃避……それが映画を見に行く唯一の理由だ。
見たから何をするということでもなく、ぼんやり映画の世界に浮かんで揺られているだけ。
つまり、そんなことのために膨大な金と時間を費やしているのだ。

もちろん映画を見終わった後は、いつもなにがしかの思いを抱く。それだけは確かだ。
下手すると、それが実際の生活に影響するくらい引きずることさえある。
だが、それを書き留めようとすると、言葉が全然出てこない。いつだってそうだ。
結局つっかえて固まって、粉々に砕け散る。
映画評論・感想をテーマにしたインターネットサイトは星の数ほどあるし、みな書きたいことを自由に書いている。
そのことを、ただ、ただ、凄いと思う。

いつか自分も、感じたことを言葉にして思うとおり書ける日が来るのだろうか。
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by terrarossa | 2004-11-10 02:10 | 映画 | Comments(1)
2004年 10月 18日
ジェリー(2002、アメリカ)
 この夏、渋谷シネマライズ隣にオープンしたばかりのRISE Xというすごく縦長の、ヘンな構造の映画館(もともと映画館として作られたのではない所を映画館として改装したらしい)で、ガス・ヴァン・サント監督の「ジェリー」を鑑賞した。

 互いに「ジェリー」と呼び合う二人の若者が砂漠で迷う、というシンプルなストーリーである。実話をヒントにして作られたということだが、作中で彼らの関係や、行動の目的は最後まで明かされない。観客に対して非常に不親切なつくりの、早い話がとても「実験的」な映画だ。
 二人の会話に登場する「ジェリー」という謎の単語は、名詞であり、形容詞であり、動詞でもある。イケてないものや、しくじったことに対しても用いられる。日本語に置き換えるとしたら……仮に「タコ」としてみるとこんな感じか。「おい、タコ」「なんだよ、タコ」「それってすんげえタコだぜ」「畜生、タコっちまった」
 そういうニュアンスで「ジェリー」という言葉が使われているのだとしたら、彼らの間柄はかなり親しいものなのだろうと、容易に想像できる。
 そんな二人が、ふらりと砂漠にピクニックに出かけたつもりが、思いがけず迷ってしまう。手ぶらで出かけたのだから、最初は本当に散歩程度の目的だったのだろう。だからこそ、事態が抜き差しならない状況に陥っていることも自覚せず、ずいぶん後になるまで軽口を叩き、ふざけ合ったりしていたのだ。
 だが、飢えと乾きと暑さは、じわじわと彼らの体力と正常な思考力を奪ってゆく。「出口なし」を暗示する幻覚、そして最後の理不尽な行動と結末。何故そこに至ったのかを説明していないにもかかわらず、不思議と何もかも納得してしまえるくらい、砂漠をあてもなく彷徨う二人の姿と、果てしない砂漠の風景を丁寧に、克明に描写している。逆に言えば、上映時間103分間の大半、そのことしか描いていない。
 この手の実験映画というのは、往々にして作り手の「とんがった意気込み」とか「傲慢さ」が鼻について辟易するパターンが多いのだけれど、この作品からはそういったものが漂ってこない。十分にキャリアを積んだ監督の作品だから、というより、自分の感性に引っかかったからこそ、そう思えただけのことかもしれない。
 いずれにせよ「エレファント」を観た時と同様、砂を飲みこんだような、何とも言えない重たさをしばらく引きずる羽目になった。

 「エレファント」、「ジェリー」と鑑賞して、とりわけ印象的だったのは、このひとが撮る「空」だ。そういえば昔見た「マイ・プライベート・アイダホ」や「グッド・ウィル・ハンティング」もガス・ヴァン・サント作品だった!どちらも細部の記憶はおぼろげになっているが、空の描写に惹かれた記憶がある。登場人物達がふと仰ぎ見る、あるいは彼らの上に横たわる空の色。晴れているのにどこか気合いが入っていない、だらりと広がる彩度の低い黄色っぽい青、ざらついた晴天の空。「ジェリー」に至っては、砂漠の空でさえも最後までぼんやりけむっていて、「死」を感じさせる鋭さはない。
 空は空でしかないはずなのだが、ガス・ヴァン・サントの「空」からは、奇妙な優しさのようなものが感じられる。空はいつも、地上で起きている理不尽で陰惨な、あるいは哀しみに満ちた出来事の数々を静かに見守っているのだ、と思わせるような。
 緑味を帯びた青空の描写、といえば、ウォン・カーウァイ監督の「ブエノスアイレス」ポスターが真っ先に頭に浮かぶ。この映画に登場する「空」もとても好きだ。偶然だが、「ジェリー」もアルゼンチンで撮影された部分があるという。むろん、それぞれ映画の内容に合うよう撮影している(あるいは、加工している)のだろうから、アルゼンチンの青空が即、ああいうものだとは思わないが、そういう撮り方をしたくなるような「アルゼンチンの空」とはどんなものなのか、実際に行って見てみたくなったのは確かだ。
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by terrarossa | 2004-10-18 05:52 | 映画 | Comments(0)
2004年 05月 24日
リベラ・メ(2000、韓国)
 だいぶ前に購入しながら封も切っていなかったDVDをやっと鑑賞。
 2時間、いろいろな意味で燃えっぱなしだったなあ。本物にこだわったスタッフの意気込みが実に暑苦しく伝わってきた。CGなんかではなく、本当にビルを爆破炎上させてしまった上に、俳優たち本人が危険なシーンも演じたとのこと。カットバックとスローモーションの多用。くどく重々しく「恨(ハン)」に満ちている。ハリウッド作品ならこうはなるまい。撮る方も、演じる方もさぞかし大変だったにちがいない。
 ストーリーは肝心な所がいまいちわからなかったし、登場人物が抱えているものや、それぞれの関係がよく見えてこなかった。台詞で語らずとも、シーンの中ではっきり見せるような手法は取れたはずだ。実力派のキャストがずらりと揃い、それぞれが素晴らしい熱演を見せていただけに勿体ない。脚本よりも、火災シーンの撮影でいっぱいいっぱいだったのかしらん。
 命がけの危険な仕事ということで、消防士をとりあげたノンフィクション番組は沢山作られている。だが、そういうところで「本物」を見てしまうと、ストーリーとは直接関係ない設定部分でのフィクション臭が気になって、集中できない。あ、これは見る側の問題か?
 チェ・ミンスはさすがにかっこいい。主人公だし、またこれが絶妙のアングルで撮られてるんだわさ。あの火災現場でマスクも何もつけないのは消防士としてどうなのか?とか、なぜ煙草なんか吸ってるー?など、突っ込みどころは多々あったが、打ちひしがれたヒーローは実にセクシーだった。
 元トップモデル、チャ・スンウォンのシリアス演技は初めて見たが、はまりすぎ。彼の濃いキャラクターは、コメディでこそ真価を発揮するものだとばっかり思っていたが、本作での、いわゆるサイコパス役はぞくぞくするほど似合ってた。またその内、ゲロゲロの悪役なども演じていただきたいものである。子供達相手に遊ぶシーンでは、「先生キム・ボンドゥ」でのチャ・スンウォンもこんなかなあ、と想像してしまった。今年のシネマコリアで鑑賞するのが楽しみだ。
 
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by terrarossa | 2004-05-24 04:33 | 映画 | Comments(2)
2004年 05月 23日
心猿意馬(1999、香港)
 一度見たVCDをなんとなくもう一度見てしまった。いちゃいちゃしている呉毅將(ベン・ウー)と王喜(ウォン・ヘイ)を再確認したかったから(ええ、腐ってます自分。腐ってますとも)。
 物語の主軸は待ちぼうけを食わされた黎姿(ジジ・ライ)と足止めを食った連凱(アンドリュー・リン)のカップルに三級片女優役のアルメン・ウォンがからむというもので(つーか、ジジ・ライが恋人に会えない一夜を寂しく過ごしているというのに、連凱先生ときたら足止め食った先でアルメン・ウォンに自分が出演する映画の相手役をしてくれと迫られて、そんでもって彼女の不幸な境遇にほだされて、ついヤってしまうのだ。ま18禁映画だしな)、タクシー運転手・呉毅將と王喜のエピソードは、メインの話にはほとんど絡んでこない。オムニバス形式の物語なので、話が独立するのはアリ、なんだけど。
 で、監督が本当に撮りたかったのは彼らの方に違いないとあらためて確信(根拠無し)。とにかく王喜がすーげーラブリーなのだ!撮影時既に三十路をこえていたはずの彼が、こりゃー無謀だろうという二十歳前後の青年役に難なくハマっている事実に驚愕。強面悪役顔の呉毅将が頼もしく優しいアニキに見えてくる。ジュリアン・マジック(←今作った言葉)恐るべし!
 特に印象的だったのは、結局ジジ・ライは機長パトリック・ツェーおじさまとの一夜の出会いも不発に終わり、連凱とも別れ、アルメン姐さんは連凱に逃げられ、不幸な人生をたどる、と、男女カップルがことごとく上手くいかないのに対して、激しいカーセックスシーンを演じきった(!)呉毅將と王喜の方は、再び相まみえる予感を残しつつ物語が終わる、ということ。ヘテロセクシュアル至上主義の世の中に立ち向かうマイノリティーとしての意志をひしひしと感じた次第である。監督の李志超(ジュリアン・リー)という人は、この後、2003年の東京ファンタスティック映画祭でも上映された「妖夜廻廊」を製作している。未見だが、非常にゲイテイスト濃厚な映画だということだ。そしてプロデューサーはスタンリー・クワン。やっぱりね(と、思った人は多かろう)。
 ひょっとしたらスタンリー・クワンは、自分がプロデュースしたこの作品で「藍宇」の習作をしていたのではないか、とついつい思ってしまう。もっとも「心猿意馬」が1999年、「藍宇」が2001年だから、「心猿意馬」に関わっていた頃にはまだ「藍宇」製作の話はなかったのだろうけれど。

 そういえばこの映画で描いているのはたった一晩の出来事なんだよな。一晩といえば思い出すのが、香港映画では「ロンゲストナイト」。これも面白かった。そして自分の人生を変えてしまったと言っても過言ではない張元監督の「東宮西宮」。これについては後ほど(って、いつになるんだろうか?)。
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by terrarossa | 2004-05-23 04:40 | 映画 | Comments(0)