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2007年 12月 03日
ヘルプ・ミー・エロス(2007、台湾)
注意!!
以下の内容は、映画「ヘルプ・ミー・エロス」(李康生監督)、「河」(蔡明亮監督)の、ずばり結末のことについて書いたものなので、結末を知りたくない未見の方はお読みにならないで下さい。

 転勤・引っ越し・転勤と繰り返し、いちだんと東京が遠ざかってしまった今、ますます映画を見に行くことが難しくなってしまった。仕事の内容も変わり、家でDVDを見るほどの精神的余裕もないのだから、映画を見なくなったのは物理的距離の隔たりばかりでもないのかもしれない。
 それでも第8回東京フィルメックスでは、二本の映画を見ることができた。
 そのうちの一本が、李康生監督の「ヘルプ・ミー・エロス」だった。
 このひとの作品というと、彼を俳優として見いだした蔡明亮監督とのつながりを、どうしたって意識せずにはいられない。蔡監督がいなければ、彼が俳優として、まして映画監督として映画の世界にいることなど想像もつかないからだ。そういう特別な関係であるからこそ、李康生という俳優がみずから映画監督になったとき、師匠である蔡明亮の作品そのままの世界になってしまうとしても、ある程度はやむを得ないだろう。彼の監督としての第一作「迷子」は、まさにそうだった。けれど、「迷子」は、同時期に発表された蔡明亮監督の「楽日」と対をなす内容となっていて、似通っているからこそ、互いの作品世界に深みと厚みを与えあうような相乗効果があった。

 さて、今回の「ヘルプ・ミー・エロス」は李監督の長編二作目。仕事に失敗し、絶望する男の性愛の物語とのことだが、正直、うーむ……といったところ。二作目ということで監督業もこなれてきたようだし、前作の「迷子」とくらべると、自分のやりたいことができるようになったらしいことがうかがえもした。が、だからこそ、中途半端に今あるところから脱却しようとして、結果的には蔡明亮のもとへ引きずり戻されてしまったような居心地の悪さばかり感じられて仕方がない。
 この映画には(「も」と言った方がいいかもしれない)、孤独な人たちが次々登場する。主人公などは、絶望して自殺を企てるところまでいくのだが、その割には、彼を気にかけ、その体に触れて、濃密な行為に及んでくれる人たちがいたりもするのだ。金払ったって触れてくれる人など誰もいない、という訳じゃない。肉体的接触ですら、なんのなぐさめにもならなかった、ということかもしれないけれど、なんだかなあ。感じるところは人それぞれだろうが、個人的には、いまひとつ説得力に欠けるような気がしてならなかった。
 結局最後は、夜、開け放たれた誰もいない窓、大量に舞い散るハズレ宝くじ、で終わるのだけれど、そこには「Hole」のようなカタルシスも、「河」のような苦い現実感もない。
 「河」も、開け放たれた窓(バルコニー)のシーンで終わる。首が曲がったままの主人公の姿が一瞬見えなくなり、絶望のあまり飛び降りを図ったのか、と思わせるが、次の瞬間、曲がった首をさすりながらたたずむ彼の姿が再び現れる。そう簡単に現実は断ち切れないのだ、という強烈なメッセージのようなものが伝わってくるラストシーンだった。
 李監督によると、ラストシーンはあえてどうとでも解釈できるようにした、ということだが、それこそがこの作品の最大の弱点だったように思う。そもそも作品全体がマリファナでけむっているような世界だから、もやもやしてるのは仕方ないってか。

(シラフで映画を見ている方としては、クスリ頼みの場面になると、途端にしらけてしまう。話は飛ぶが、昨年、東京国際映画祭で見た、鄭有傑監督の「一年の初め」はそういう意味で大きな失望を感じた作品だった。前作の「シーディンの夏」をものすごく気に入ってしまっただけに、百年の恋が冷めるが如くがっかりしてしまったことを覚えている。いや、だからって、なにもクスリが出てくる映画が全部ダメということではない。問題は、もっとも重要な場面とおぼしきところでドラッグを使っちゃった、ということにある。肝心なところをシラフで乗り切って欲しかった、と今更ながら勝手なことをここでほざいてみたりもしたくなる。)

 映画祭なので、「ヘルプ・ミー・エロス」上映後、監督へのティーチ・インというのがあったのだが、観客の質問に対して長々と語りだしたのにはびっくりした。あの無口で、口下手だった「シャオカン」が、いつのまに師匠・蔡明亮そっくりになって!
 映画監督としてはまだまだ駆け出しの李康生に、今回は苦言ばかり並べてしまったが、師匠の影をひきずりながらも彼がこれからどこへ向かっていくのか楽しみでもある。日本での上映の機会があれば、多少無理をしてでも彼の作品を見に行かずにはいられないだろう。たとえ期待はずれで、ぶつぶつ文句をたれるはめになったとしても。
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by terrarossa | 2007-12-03 03:05 | 映画
2006年 11月 30日
蛾を演出する方法
 今年も、幸運なことに「第7回東京フィルメックス」での上映作品を何本か見ることができた。映画祭のクロージング作品として上映されたのは、ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)監督の新作、「黒眼圏」。台湾で活動してきた監督が、初めて故郷のマレーシアで製作した作品ということだが、彼の作品世界の「オム・ファタール」として欠かすことのできない「シャオカン」ことリー・カンションと、これまでと同様「シャオカン」を狂おしく求める存在として、チェン・シァンチーが主演している。舞台が世界のどこであろうと、蔡明亮ワールドは蔡明亮ワールドなのだ。設定がどんなに不確かで突飛なものであっても納得できる安定感がある。いつもテーマはいたってシンプルだからだ。今回は、ダニまみれの重たいマットレスがあっちへ移動しこっちへ移動していくうちに、人間関係の方もずぶずぶ深まっていくという筋立てになっている。

 この映画の中に、蛾が登場する美しいシーンがある。
 建設途中で放棄されたビルの廃墟。中央には雨水などが流れこんだのか、大きな池ができている。そこでひとり、釣りをしている「シャオカン」。腕には大きな蛾がとまっている。と、蛾は羽ばたき、よろよろと不器用に飛んで水に落ち、また羽ばたいて上昇していく……
 割と唐突に挿入された感じのワンカットだが、なにか作品そのものを象徴するような、非常に印象的なシーンとなっている。
 この場面をどう撮ったかということについて、映画上映後のティーチ・インで、ゲストとして来日していたチェン・シァンチーが「あの蛾は本物で、(偶然あのように動いてくれて)ワンテイクでOKだった」と言っていた。
 映画の中に出てくる蛾は、大きさや翅の模様から、ヤママユガ科の「ヨナグニサン(Attacus atlas)」だと思われる。東南アジアに広く分布し、日本でも与那国島や石垣島に生息する、世界で最も大きい蛾の仲間だ。ヨナグニサン起用については、大きさ的にもビジュアル的にも申し分ないから「オファーされた」のだろうが、ワンテイクで撮影が成功したのは、生態上の特徴が結果的にうまく生かされたからではないだろうか。
 蛾は、翅の大きさに比して体が大きくて重く、蝶に比べると飛ぶことをあまり得意としていないものが多い(蝶と蛾を明確に区分する「定義」はないということは、以前書いたとおりだが、すくなくとも日本や中国では、分類上の「科」によって、どの科が蛾でどの科が蝶かという線引きをきっちり行っている)。ヤママユガ科の蛾も例外ではなく、飛行が不得手で静止している時間が長いため、捕獲しやすい。また、夜行性の蛾は、光の方向に飛ぶという性質を持っているので、廃墟の天井に空いた空間というロケーション(上方が明るい)は、この蛾の性質をふまえた上では、絶好の環境にあったと言える。
 もし蛾の動きが活発すぎて手こずるようならば、箱かポリ袋に入れて、冷蔵庫で10分程度冷やすと良い(冷凍庫ではそのまま凍死してしまうので駄目)。冷蔵庫から出せば、最初はおとなしく静止しているが、体温の上昇とともにふたたび元のように動き始める。
 ということで、実際の撮影はぶっつけ本番で行ったということだが、あの類の蛾であれば、ある程度のコントロールは技術的に可能だったと思うところである。

 以下、蛇足。
 映画撮影の現場において、大型の蛾ならばどうにか本物を使えそうだが、動きが素早い蝶の方はやっぱり物理的に難しいようだ。ということで、蝶のCGが出てくる映画やテレビドラマはけっこうあるが、面白いのは、CGで描こうとしている飛び方がほぼすべてモンシロチョウとかスジグロシロチョウなどの「シロチョウ科」の蝶を念頭に置いてるらしいということ。それだけ身近でイメージしやすいってことか。でも、どれ一つとして本物らしいリアルな動きをしているものは無かったように思う。蝶の飛行、今の技術をもってしても再現不可能なのか。
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by terrarossa | 2006-11-30 02:08 | 映画
2006年 08月 19日
キングダム・オブ・ヘブン(2005、アメリカ) 
 映画「キングダム・オブ・ヘブン」は12世紀に実在した人物やできごとを描いている。オーランド・ブルーム演じるバリアンという人物は、実在したエルサレムの領主で、イスラムとの攻防戦を行い、人質となった領民の解放に外交的手腕を発揮したという。
 ……ということなのだが、史実を描いたにしてはずいぶんとファンタジックで甘い展開。あれれ?と思っていたら、案の定、史実のアウトラインをなぞっただけのフィクションだったということを知って納得。
 映画の中で、若きバリアンは名もない鍛冶屋として登場し、突然現れた実の父によって自分の出自を知り、騎士として新たな人生を歩んでゆく。実際はというと、バリアン・オブ・イベリン(Balian of Ibelin)、その名の通り「イベリン(という領地)のバリアン」は、高名な騎士の庶子などではなく、エルサレムちかくにあったイベリンの領主の三男(末子)として育ち、兄たちの早世によって後継者になったというのが事実のようだ。ボードワン四世の妹姫とのロマンスや、何もかもけりがついた後にふたりでいずこともなく去っていく、などというエピソードは映画の中での創作だろう。そこはあくまでも娯楽時代劇、ということで。
 とはいえ、実際のバリアン自身の生年もはっきりせず(没年は1193年)、歴史上「暗黒中世」と呼ばれ、きわめて資料の少ない時代を題材にしているこの映画自体、衣装や美術や戦闘シーンのディティールへのこだわりはあっても、史実がどうのということはさほど重要視していないようだ。はからずも指導的な立場に導かれてしまった一人の青年がどう成長し、リーダーとしてどのように仕事をしていったのかというアクションの部分が、この映画の見どころだろう。マッチョイメージ皆無の、どこか頼りなげな感じのするオーランド・ブルームが指導者役というのは、ステレオタイプの娯楽映画として見れば弱いところだけれど、等身大のキャラクターとして身近に感じるという点ではかえって効果的だったように思える。
 戦争回避のため、最後まで奔走し続けたバリアンだったが、それが叶わないとなれば、町と領民を守るために毅然と戦う。敗色濃厚となれば降伏の決断を下し、領民が犠牲とならぬよう、できうる限りの方策を考え、行動する。
 そう、大きな組織で仕事をしていると、しばしば自分の信念とは反することをやらなくてはいけなくなる事態が生じる。まして管理職になれば、自ら望んでなった者もそうでない者も、個人的葛藤は胸の内にしまいこんで、それを他人(部下)に指示しなくてはいけなくなる。おのれの信念のみを貫こうとすれば軋轢が生じることは必至で、組織が組織としてたちゆかなくなることもあるし、かといって常に個を押し殺して仕事を遂行していけば、組織は望ましくない方向へ暴走していく危険性がある。組織を率いる者として、個人としてどう折り合いをつけ、より良い方向にみちびいていくか、そのすべてがリーダーの裁量に委ねられるのだ。だが、その組織が大きければ大きいほど、その評価は後世まで待たなければならない。ただし、評価といっても「正義」はいつも勝者のものだ。絶対的な正義などありはしない。
 
 バリアンの生年は不詳だが、彼の父親は1150年に死亡していると記録にある。このことから、史実上の彼は、演じたオーランド・ブルームの実年齢よりももっと上で、エルサレム攻防の頃には少なくとも三十代後半か四十代前半になっていたと思われる。
 そしてまさにその頃、遠い東の国では源氏と平家の争いが繰り広げられていた。源義経とバリアン・オブ・イベリン……物理的にも遠く、まったく関連のない両者であるが、戦いに明け暮れていた時期が同じであるということ以上に、どうにも上手く説明できない、奇妙な符丁を感じるのだ。バリアンにも義経にも、エルサレムと平泉という「キングダム・オブ・ヘブン」が存在したからなのだろうか。
 実際のバリアンは、義経よりもその兄、頼朝の年齢に近かったようだ。ともあれ、同時代に歴史の表舞台に現れたふたりが、日本とアメリカという遠く隔たった地で、同年(2005年)にドラマ・映画の題材としてとりあげられたのも、また奇妙な偶然と言うべきか。
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by terrarossa | 2006-08-19 03:56 | 映画
2006年 07月 20日
ジダン 神が愛した男(2006、フランス・アイスランド)
 ぼんやりと競技場のピッチらしきものが映し出される。ピントが合わないまま拡大され、抽象化してゆくエリア。赤・緑・黒の連続する微細な四角形、テレビのブラウン管。

 すでに試合は始まっている。

 2005年4月23日。
 明らかになっているのはこの日付だけだ。
 チーム名も、競技場の場所も、なんの試合かも、字幕では示されない。
 スクリーンを見つめる257席の観戦者を拒絶するかのように、ピッチ全体を映し出すカメラは決して焦点を合わさない。
 唯一明確に識別できるもの、それはジネディーヌ・ジダン、ただひとり。
 ボールの動き、試合展開、といった実況中継的な要素を徹底して排除し、執拗に、舐めるように、17台のカメラはジダンというプレイヤーだけを追い続ける。汗のしたたり落ちる顔、握りしめた拳、芝生に引っかかるシューズの感触をいちいち確かめているかのような独特の歩き方、不連続な息づかい、チームメートへ向かって発せられるごく短いかけ声。

 ジダンはレアル・マドリードの一員として試合に臨んでいる。ピッチには22人の選手がいるはずだ。せわしく交錯する複数の人間の姿が、時おりぼんやりと画面に現れては消えていく。彼らは意図的に曖昧な存在へと追いやられている。背番号を手がかりに、単なる記号としての認識にとどまらざるを得ない選手たち。ジダンに声をかける「3」(ロベルト・カルロス)、ゴールへ走りこむ「9」(ロナウド)、敵のクロスに阻まれる「7」(ラウル)、ピッチを駆ける「23」(ベッカム)、背中だけが画面の端をかすめた「10」(フィーゴ)。
 
 大音響の声援。大写しになるひとりの男の輪郭。
 苦行僧さながらの厳しい横顔が、何かを射抜こうとするような鋭い視線でもって、画面には写らないボールの動きを追っている。ゆっくりと距離を縮めていく。そして、唐突に消失する。が、次の瞬間、トップスピードにのった彼の姿がふたたび現れる。幾人ものチャージを軽々とかわす軽やかな足取り。ボールはまるで重さのない風船のように、しばし彼の足のまわりを戯れる。ねじれてゆがむ時間軸。
 行われているのはサッカーの試合だ。そして選手は22人。
 だが、そこにあるのはただ、圧倒的な孤独と寂寥感だ。孤高の天才は、たったひとりで試合に挑む。ひとりぼっちのジズー。


 隣に座った中学生二人組がひそひそ話を交わす。苛立たしげにスナック菓子の袋を音を立てて開け、持参したペットボトル飲料を少しずつ飲んでは、そのたびに座席のホルダーへ乱暴に戻す。
 ひとことの字幕もつかない早口なスペイン語の実況や、いっこうに焦点の合わない引きの構図に、彼らはあきらかに戸惑っている。
 ボールを持っていようがいまいが、画面にはっきりうつるのはジダンただひとり。試合中継でもない、ましてやジダンの華麗なプレイを見せる映画でもない。この「サッカーの試合」の表現方法が、年若い彼らには難解に過ぎたのだろうか。

 ハーフタイム、その日世界で起こった出来事が、簡潔なテロップと共に、次々と紹介される。キューバ、スペイン、イラク、インドネシア、そしてジダンの子供が風邪をひいた、と。一瞬にして世界へ散らばっていったイメージは、結局またピッチのなかへ、ジダンという人物のなかへ収束してゆく。
 後半、蓄積していく疲労。汗で貼り付いたユニフォームの不快な感触。荒くなる呼吸。ソックスを引き上げる長い指。
 試合に大きな動きがあったようだ。試合運びは断片的にしか描写されないから、前後の展開がよくわからない。荒れ狂うブーイングの嵐。プレーを巡ってトラブルが起きたのか、渦中へ詰め寄っていくジダン。選手たちのつかみ合い。そこからジダンを引き離し、鎮めようとしている選手に、初めて焦点が合う。今度ははっきりとわかる。ベッカムだ。眼前に差し出されるレッドカード。退場を命ぜられ、ピッチをあとにするジダンの肩を抱き、観客たちに拍手を促すラウル。見送るチームメイトたち。
 画面は再び拡大、抽象化され、赤と緑と黒の連続模様に収斂する。エンドロール。
 
 試合の結果はわからないままだ。
 そう、これは映画という技法を用いて描かれたジネディーヌ・ジダンの肖像画だ。描かれるべき対象が舞台から去れば、そこで描写は強制終了せざるを得ない。彼が去った後の試合展開は、この映画にとっては全く意味のないものなのだ。

 きれぎれに挿入される無言のテロップ。
 「いつか魔法の解ける日がやってくる。
 ……引退したら、ピッチの緑が恋しくなるだろう」
  
 ひどく残酷なかたちで「魔法が解かれた」ことを、ここの観客たちはみな認識している。
 それを予告していたこの肖像画作品のあまりの精緻さに、ふたたびやりきれない思いがよみがえる。
 だが、世界中で交わされているであろう、センチメンタルな見解はもういい。
 等身大のジネディーヌ・ジダン、フィルムに記憶された真実の断片が存在すること。
 多分それは、喜ばしいことなのだ。


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自分としては割とめずらしく、見終わった直後の衝撃を、衝動の赴くままに書いてみたらこうなった。なんだかなあ。
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by terrarossa | 2006-07-20 00:16 | 映画
2006年 04月 20日
美しき野獣(2006、韓国)
 地元で見る久々の韓国映画は、昨年の「甘い人生」に続き、これまた韓国ノワールのかほり濃厚な「美しき野獣」。スターが出演してる映画でないと、地方までまんべんなく上映してはくれないので、これらのセレクトも致し方ない、というか。
 いや楽しかった。噂に違わず、この破綻っぷりのアッパレなことよ。「野獣」なのはクォン・サンウだけかと思ってたら!
 危険なアクションをすべてスタント無しで大熱演したというクォン・サンウだったが、最終的にいいところをさらっていったのはユ・ジテ。法廷での熱弁はかっこいかったなあ。てか、そこがあんまりよかったので、その後の結末が結末が。詳細は書かないが……かたい信念はどこいったんだ!あんたいいのかそれで?
 クォン・サンウ演じる刑事のほうは、肉親にまつわるあれこれがわりと描かれているので、「野獣」と化す動機はまあ、わからなくもない。それでも、すぐにキレて暴力に訴えるはちゃめちゃっぷりが極端すぎて、考え無しのおばかさんキャラクターに見えてしまうところが気の毒というか、刑事であること自体の説得力を奪っていると思う(「殺人の追憶」にもそういう暴力刑事が出てきたので、ある程度まではほんとなのかも知れないが)。残念。
 それにしても、見てる間じゅうデジャヴに翻弄されまくった。80~90年代に大量に作られた香港黒社会映画のテイストそのまんまだからだ。そう合点すると、この映画のはちゃめちゃさもすんなり受け入れることができる。その途端、ありえねー!とか、なんだよこの結末はー!というツッコミは、ほめ言葉と化すのだ。「荒唐無稽」とか、初めからわかりきったことは言っちゃいけないんだなあ。
 クォン・サンウ刑事は、言うなれば、若き日のアンディ・ラウ得意とするところの、考えるより行動する、が信条の、深く物事を考えるという思考回路がきれいに抜け落ちているキレた過剰熱血キャラクター。どんどん壊れていくさまは、まるで「蒼き獣たち」の末路のようだ。または「男たちの挽歌」におけるチョウ・ユンファの最期とか。韓国映画は確実に香港映画化している。20年遅れで。
 「甘い人生」よりも濃厚に香港映画的雰囲気が漂っているのは、やはりクォン・サンウとユ・ジテが演じる主役ふたりの関係が、ホモソーシャルな固い絆でむすばれているように描かれているからだろう。最後、クォン・サンウと同化したユ・ジテ、という言い方もできそうな結末を見てしまうと、やはりこのふたりはチョウ・ユンファとティ・ロン、またはチョウ・ユンファとダニー・リーが演じていたような、「厚い友情」と言うだけでは足りない、究極の関係性にまで至っているように思えるのだ。

 それにしても原題「野獣」に、あえて「美しき」とつけ加えた邦題の真意は。ここでのクォン・サンウはワイルドなヨゴレ役だし、ユ・ジテの役も「美しき」って感じとは違うし。ボンドガールは出てこないけど、「007」シリーズのノリかなあ(←古すぎ!)。
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by terrarossa | 2006-04-20 02:26 | 映画
2006年 02月 15日
「アフリカ・ユナイテッド」再び上映の予定!
下記、「2005年に見た映画」で紹介したアイスランドのドキュメンタリー映画、「アフリカ・ユナイテッド」が、これから開催される「アイスランド映画祭2006」で上映されるとのこと。
ドキュメンタリー映画は上映の機会が少ないので、こういう催しで上映してくれるのはうれしいです。
これで会場がもっと近かったら、迷わずもう一度見に行けるんだが……

「アイスランド映画祭2006」は、
2006年3月4日(土)~10日(金)   ユーロスペース(東京都渋谷区)
2006年3月18日(土)~20日(月)  神戸アートビレッジセンター(神戸市兵庫区)
で、開催される予定。公式サイトはこちら。

他の映画のラインナップも面白そうです。

(なお、神戸会場でのプログラムは今のところ未定なので、「アフリカ・ユナイテッド」を上映するかどうかは、まだわかりません。)

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<3月14日追記>
神戸アートビレッジセンターでの上映スケジュールが決まったようです。
「アフリカ・ユナイテッド」の上映は、3月19日(日)19:00~ とのことです。
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by terrarossa | 2006-02-15 03:00 | 映画
2006年 02月 05日
2005年に見た映画
 2005年は、年末に体調を崩したこともあって、見た本数は90本弱。しかも相変わらず映画祭などイベント上映で「見だめ」するばかりで、ロードショー公開で見たのは全体の3割以下でしかなかった。で、印象に残った映画を選んでみたら、見た人の絶対数が少ないものがほとんど。そんなものを挙げて感想を述べても、なんのことやらさっぱり、だよなあ……うーむ。
 2005年の最大の特徴は、ドキュメンタリー映画の魅力にはまったことだ。その「決定打」となったのが、2005年10月に開催された「山形国際ドキュメンタリー映画祭2005」。10月8、9、10日は仕事が休みだったので、ずっと山形中央公民館6階にいりびたって、3日間朝から晩まで映画を見た。だが、あまりの上映作品の多さに見落としてしまった作品があきらめきれず、山形から帰宅した翌日、仕事を終えてから高速道路を何時間もぶっとばし、その夜の最終上映に駆け込んで深夜にとんぼ返り、というバカもやってしまった。
 ドキュメンタリーというからには、とりあげているものの多くは、実在のものや、実際に起こったことだ。だが、「監督」という人物が(しばしば部外者・侵入者という立場で)そこに存在し、その場所で撮影という特殊行為をしているのだから、できたものはひとつの主観的な作品であり、もはや事実とも真実ともいえない。だから、撮られた内容よりも、製作者の考え方や視点に共感あるいは賛同できるかどうかで個人的評価が決まってしまう。もっともこれは、劇映画だって同じ事かもしれない。だが、意外にもドキュメンタリーと称されているジャンルのほうが、客観的な視点で見ることが難しいのだ、ということにやっと気付いたのも昨年の収穫か。

 以下は、印象に残った映画10本。
 アジアを突き抜け、中東にヨーロッパにハリウッドにと、手を広げすぎて収拾がつかなくなってきていることがよーくわかる、かも。

夏の突風(ドイツ)
ドイツ映画祭2005にて。
 親友に恋をしてしまった少年の、カムアウトをめぐる物語。さわやかでせつなくて生々しくて、そして笑いのツボもしっかりおさえた、青春映画の傑作。難しいテーマをリアルに、でも重くなりすぎず描いていて、見た後の爽快感ときたら、もうただごとじゃなかった(?)。商業映画として見てもじゅうぶん楽しめる映画だと思うのだけど、日本で公開する気配はまだなく……あーもったいない!

ガーデン(イスラエル)
山形国際ドキュメンタリー映画祭2005にて。
 さっき、ドキュメンタリーは主観的な作品だ、と書いたが、登場する人物たちが、場所が、あるいは、出来事が、たしかに現実のこの世に存在している、ということだけは事実だ。少年が肉親につけられた傷跡(ナイフで切られて傷口に塩とレモンを塗られたという)、ケンカでぼこぼこにやられた翌日の、あざだらけの体。当然ながら、これらの傷は痛みを伴ったほんとうの傷だ。イスラエル・テルアビブで売春するアラブ系の少年たちのすさまじい日常。この映画のことについては後日、あらためて書いてみたい。

アレキサンダー(アメリカ)
 初めはコリン・ファレル扮するアレキサンダーが、どうしてもジョージ・ブッシュにしか見えなかったり、アンジェリーナ・ジョリーの老けない母親オリンピアスに違和感をおぼえたりしていた。が、物語が壮大すぎて、一回見ただけではわからず、何度も見る内にずぶずぶと深みにはまっていった映画。とにかく、巷でいうような駄作だとは全く思わなかったんだけどなあ。
 この映画により、ハリウッドという世界にはじめて興味を持つことに。

アフリカ・ユナイテッド(アイスランド)
山形国際ドキュメンタリー映画祭2005にて。
 爆笑につぐ爆笑、などというドキュメンタリー映画は珍しいかもしれない。アフリカや中南米からの移民だけで構成されたサッカーチームが、アイスランドの4部リーグを目指して奮闘する話。これが一筋縄ではいかず、メンバー同士でケンカはするわ、審判は殴るわ、チームプレーってなんですか状態のへぼ試合の連続。そんな中、モロッコ移民の監督ジーコ(←本名だそうだ)は、チームの存続と勝利を目指し、ひたすら頑張るのだ。このジーコ監督を始め、個性溢れる(と言ったら聞こえはいいが、こんな連中がほんとにそばにいたら迷惑この上ないに違いない)メンバーたちの魅力的なこと!
 背景には、移民たちに対する差別、厳しい生活などといった深刻な社会的事情があり、もちろんそういったものも描かれている。けれど、決してシリアスに陥ることなく、それどころか笑いと希望に満ちた作品になったのは、時にはヤケクソ気味だが、エネルギッシュで懲りない登場人物たちと、そのように彼らを撮影した製作者の、まさに「勝利」なのだろう。

無米楽(台湾)
第18回東京国際映画祭にて。
 ドキュメンタリーながら、台湾で大ヒットしたというのも大いにうなずける秀作。老農たちのたどってきた山あり谷ありの人生、日本と同様、稲作中心の農業を細々と継続していくことの困難さがじっくり描かれている。農業をとりまく事情については、職業柄、当事者であり、人ごとではないため、映画の枠を超えて色々考えさせられてしまった。
 にもかかわらず、作品のトーンは暗くはない。ひとえに、登場する老人たちの魅力によるものだ。老人の一人が、農作業をしながら声高らかに歌う日本語の歌が、心に残る。

ダブリン上等! (アイルランド、イギリス)
 原題は「Intermission」。だが、なんといっても邦題がすばらしい。これに尽きる。でも、これを逆に原語訳したらどうなるんだ?
 登場する人物すべてが、ボタンを掛け違えてずれまくってるかのごとき映画。コリン・ファレルの、あんたそれ地でたのしんでるんじゃないか?と問うてみたくなるほどのリアルなダメチンピラっぷりはお見事。紅茶にブラウンソースが本当に「悪くねえ」かどうかは……いまだに検証できていない。

ルート181(ベルギー、フランスほか)
山形国際ドキュメンタリー映画祭2005にて。
 昨年見た「鉄西区」ばりの、4時間半にわたる超大作。映画は、1947年に国連決議第181条で採択されたイスラエルとパレスチナの境界線を「ルート181」と名付け、レバノン国境に向かって北上しながら、そこで出会った人々にインタビューしていく内容。インタビューは、偶然会った人に、突然行ったという。様々な立場の人々が語る、生活、政治、宗教。それらが複雑に絡み合い、憎悪を募らせ、いかんともしがたいところへ行き着いてしまった絶望、それでも日々の生活を営んでいくためにとらねばならない精神的・物理的自己防衛手段の数々。
 その中でも特に印象に残ったのが、有刺鉄線ビジネスにいそしむ男だった。一時期和平へ動いたときは工場は倒産寸然だったが、今は生産が注文に追いつかないと興奮気味に語る男には、敵も味方もない。パレスチナだろうとイスラエルだろうと、注文があれば、刃の鋭くて長い「違反有刺鉄線」も生産する。暮れに見た映画「ロード・オブ・ウォー」では、武器商人を描いていたが、この男もまさに武器商人と同じ「第三の存在」だ。

水没の前に(中国)
山形国際ドキュメンタリー映画祭2005にて。
 これも2時間半ちかくの長編ドキュメンタリー。三峡ダム建設のため水没することになった町のさいごの日々を描いている。町一個まるごと水没、なのだから、立ち退かねばならない人の数も半端じゃない。満足な補償金も払われず、望んだとおりの住宅に移住できない人もたくさん出てくるわけで、そこはもう、論理や理性をまたいで、ごったごたな泥仕合に陥ってしまうのである。それでも、泣こうがわめこうが工事はどんどん進められ、建物は爆破されてゆく。その中を縫って、くず鉄は金になるからと大八車を駆って建物の鉄筋や階段の手すりを集めにくる輩ももちろんいる。したたかで熱気に満ちた中国は、ひとりひとりの思惑を全て大きな渦に巻き込んで、ますますスクラップ&ビルド街道を爆走中なのだ。

フル・オア・エンプティ(イラン)
東京フィルメックス2005にて
 実に楽しい、アボルファズル・ジャリリ監督のコメディ映画。素人を起用しているそうだが、ツッコミのいないボケ漫才のようなやりとりが絶妙。特に主人公の下宿先のおばさんのキャラクターが最高だった。報われない(けど、どこまでも不屈な)主人公を傍目に、最後には見事に玉の輿というサクセス人生がナイス。

ライターをつけろ(韓国)
韓流シネマフェスティバル2005にて。
 ヤクザの親分を演じているチャ・スンウォンを目当てに見に行ったのだが、たかが30円のライターのために命の危険も顧みず(というか、自覚せず)行動を起こすキム・スンウの一途なボケっぷりに見事やられてしまった。この映画のインパクトがあまりにも強かったので、彼が他の作品で二枚目の役もやっているということが、なかなか信じられなかった(この人が出ている他の作品は、まだ見たことがない)。


 ……と、ここまで書いたところで、2004年とはまるで正反対のカラーの映画を選んでいることに気付く。そう、2005年印象に残ったのは、ドキュメンタリー映画とともに、ボケ系のコメディーだった!
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by terrarossa | 2006-02-05 07:24 | 映画
2005年 05月 29日
甘い人生(2005、韓国)
 個人的には、ファン・ジョンミンがげろげろの悪役を演じるということで、大いに期待していた映画。
 やー、久々の荒唐無稽な(失礼)ノワール映画だった!ファン・ジョンミンは、同情のかけらすら抱くことができないようなイヤーーな役をディティールに凝りまくって、喜々として演じていた(ように見えた)し、曲者揃いの役者がいっぱい出てきて、大いに楽しめた。
 たしか日本ではイ・ビョンホンとシン・ミナの「恋愛」を前面に強調して宣伝していたはずだが……そりゃないだろう。即刻「JARO」に通報ものだ。コーヒーゼリーを食し、コーヒーに砂糖を入れて飲む、どうやら甘党らしいキム・ソヌ(イ・ビョンホン)くらいか、甘かったのは。
 映画を見ている内に、以前、憑かれたように見まくっていた香港ノワール映画の数々が甦ってきた。通奏低音は「男たちの挽歌」シリーズ。SHINHWAのエリックは「上海グランド」の、肝心なところでおいしいところをさらっていくチョン・ウソンみたいだったし、ラストシーンは「ハードボイルド 新・男たちの挽歌」のようなシメだ。思わず「ありえねー」とつぶやかずにはいられなかった不死身のイ・ビョンホンは、そのまんまチョウ・ユンファが演じてきたキャラクターに直結する。つまり、ついうっかり「彼の人生とは?」とか「彼の胸の内に去来する感情は?」などという内面のところを真剣に考えたりすると失敗する、そういう種類の映画のような気がする。ただただ、血みどろになってもスタイリッシュでかっこいいイ・ビョンホンを堪能すればいい。
 いわば21世紀版韓国ノワールともいえる「甘い人生」だが、かつての香港のそれらと違ってまったく湿気がない。クールでドライ。イ・ビョンホン演じるキム・ソヌもそのような人物として描かれており、やすやすと感情移入させてはくれない。かつてのやくざものにあったような、「熱い友情」を交わす友の存在もない。そういうキャラクターが最初から最後までピンで物語を引っ張って行かなくてはいけないのだ。そこがなにか、薄さとか物足りなさを感じる一因なのかもしれない。
 過剰な暴力という衣をまといつつも、さくさくと物語が展開していくだけに、最後の社長との対峙シーンがひどく濃密に感じられた。クールビューティー(!)なキム・ソヌが、唯一感情を吐露する場面だ。あれこそ究極のラブシーンだと思うんだけどなあ。
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  偶然、たて続けに「コンスタンティン」と「甘い人生」を見てしまったのでこんな結果に……イ・ビョンホンのファンの皆様ごめんなさい。やっぱり似顔絵は難しいです。

 共通点は黒スーツにブラックタイだけかと思っていたら、ほかにも色々あるかも、と感じている次第。
キアヌ・リーブス演じるジョン・コンスタンティンも、なに考えてるかわかんない、表情に乏しいキャラクターだし(キアヌ自身がそういう雰囲気の俳優なのでなおさらか)、原作が漫画のトンデモ話で、内面うんぬんという映画じゃないし。同じにおいを感じているのは自分だけか?
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by terrarossa | 2005-05-29 06:21 | 映画
2005年 03月 30日
ジョヴァンニ(2001、イタリア)
 映画「ジョヴァンニ」の舞台となった中世・ルネサンス期の地球は、気象学的に「小氷河期」といって、今より気温が低い時代だったという。そういえば、この時代に描かれたヨーロッパの絵画を見ると、絵に描かれた人々は、皆やけに厚着だ。質素な服も豪華な服も、分厚いカーテン生地のような質感で描かれている。冬の衣装を描いた絵しか残っていないということはないはずだから、やっぱり寒かったのだ。その後も、とりわけヨーロッパの女性の衣装が過剰なまでに重厚に華やいでいったのは、13世紀から19世紀半ばまで続いたという小氷河期あってこそなのではないか。ごてごて重ね着しても丁度良いくらいの気候でなければ、ああいった服飾文化は成立しないだろうと思うのだが、どうだろう。
 古代ギリシャ・ローマ時代の人々が、地理的にさほど違わない地域にあって、たいがい腕も足もむきだしでひらひらの薄物だけを身にまとっていたことを考えると、その差は歴然としている。わずかな気候の違いであっても、その時代の文化そのものに及ぼす影響は決して小さくはないはずだ。

 閑話休題。
 「ジョヴァンニ」は、おそろしく静謐で、そして、「小氷河期」のヨーロッパらしく、心底寒さに身の震えるような作品だった。
 物語の舞台は主にイタリア北部だが、実際は零下20℃を下回る、厳寒期のブルガリアでロケを行ったそうだ。現在のイタリアでは温暖すぎて当時を再現できないだろうから、気象条件にこだわった結果、ブルガリアにしました、という訳でもないだろうが……いや、エルマンノ・オルミ監督だったらそこまで考えそうな感じもしないでもない。
 史実どおりだとすると、季節は11月かそこらのはずである。だが、半ば凍った川面から湯気のように川霧が立ち上っているし、ひとの吐く息で隊列全体の輪郭がぼやけて見える。半端でなく寒いことは一目瞭然だ。その中で金属製の武具を身につけなければいけなかった俳優たちはさぞかし辛かったことだろう。
 この映画のテーマは、自分が誰を殺し、誰に殺されようとしているのか知りえない、非人間的で愚かしい「近代戦」のはじまりと、近代兵器=大砲の最初の犠牲になった最後の騎士のことであって、おそらくジョヴァンニ・ディ・メディチという人物そのものについてではない。
 いずれにせよ、物語は歴史的事実に沿って、ドキュメンタリーのように淡々と展開していく。同時代に実在した人物たちが、次々とカメラに向かって状況を説明する。そのカメラは、意識的に距離を置いてジョヴァンニと接しているように見えるし、また、ジョヴァンニを語る劇中の人々も、彼の人物像について深く掘り下げようとすることはない。
 ジョヴァンニを巡る人々(アルフォンソ・デステやフランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレが登場するのだ!)の複雑な確執、陰謀、裏切り、人妻との秘められた恋。やりようによってはものすごくドラマチックにできそうな話をあえてぎりぎりまで抑えに抑え、ひどくストイックに演出している。もちろん映画では、戦闘シーンあり、激情に駆られた行動ありと、それなりのアクションはあった。激しい恋に落ちる場面も、実に印象的に撮られていた。が、見終わって振り返ってみると、凍てつく寒さと、水を打ったように静まりかえる風景の残像だけがあって、全く音の記憶が無いのだ。
 何よりもまず、この作品でのジョヴァンニは、戦傷を負う前から、自らの死期を悟ったかのような、ある諦念のようなものが始終感じられて仕方がなかった。いずれ磔になることを予期し受け容れる、殉教者のような雰囲気すら漂っている。一個大隊を率いる傭兵隊長が、いくら身内の裏切りを知ったからといって、戦闘のさなかにこんな哀しい目をしていたら、兵士たちは戦わずして戦意喪失してしまうよ。 
 だが、重傷を負い、いよいよ足を切断しなくてはならなくなる段になって、「エルマンノ・オルミ流ジョヴァンニ」の寂寥感に満ちた表情は断然生きてくる。発熱による汗ばんだ肌、自由を失い、はからずも他人の手に委ねざるを得ない状況に陥った身体の、なんとエロティックなことか。
 (結果として、恐らく足の切断による感染症が彼の命を奪ったのだが、当時の惨憺たる衛生状況を考えると、むしろそうならないほうが不思議だといえるだろう。)
 クリスト・ジフコフ演じる、激情を内に秘めた、寡黙なジョヴァンニは、はっきり言ってものすごく好みである。よくぞブルガリアまで遠征してこんな素敵な俳優を起用してくれたものだと大喝采したいくらいだ。妻マリア役のデシィ・テネケディエヴァ(このひともブルガリアの役者だ)も愛人「マントヴァの貴婦人」役のサンドラ・チェカレッリも、当時のフレスコ画からそのまま抜け出したかの如き、古風な美しさに満ちあふれていて、彼女たちの登場シーンはまさに至福の時間。ただもうウットリ(←ヨダレ出てます)。
 
 が、ここで大きな落とし穴が待ちかまえていた。自分の過去の記憶だ。
 というのは、高校時代になぜか中世・ルネサンス期のヨーロッパにはまり、そのあたりの歴史本を憑かれたように読みまくっていた時期があったのだ。
 ジョヴァンニ・ディ・メディチについては、「黒隊のジョヴァンニ」と称された勇猛剛毅な武将で、優れたリーダーであった。母親はチェーザレ・ボルジアと渡り合った「女傑」カテリーナ・スフォルツァである。少年時代は手のつけられないワルで、長じて傭兵隊長になってからは、あちこちで戦争しながら複数の愛人を囲うような、エネルギッシュなやり手男だった……等々、すべて史実か真実かどうかはわからないまでも、一定の先入観を抱くほどの情報を事前に得ていた、というのが痛い。すごく痛い。エルマンノ・オルミ描くところのジョヴァンニの世界に、心ゆくまでどっぷり浸りたかったのに、「このジョヴァンニ、なんかちょっと違うよなあ」というムダな疑念に始終悩まされることになってしまった。ああ悔しい。でも、知らなければ良かった、と思う反面、もしあの時代にはまっていなかったら見ていなかった映画だろうな、と思ったのも事実である。皮肉なものだ。
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by terrarossa | 2005-03-30 20:55 | 映画
2005年 03月 03日
レクイエム・フォー・ドリーム(2000、アメリカ)
 出演者たちの心と体に尋常でないプレッシャーを強いたであろう、ジェットコースター恐怖映画。
 ヤクの売人で、自らもドラッグ漬けになるダメダメ息子を演じたジャレッド・レトの鬼気迫るやつれっぷりもアッパレだったが、それ以上に、ダイエットがきっかけで覚醒剤にはまり、精神が崩壊してゆく老いた母親を演じたエレン・バースティンがとにかく凄い。
監督は、デビュー作「π(パイ)」で一躍有名となったというダーレン・アロノフスキー。が、「π」は未見だし、原作小説「夢へのレクイエム」も読んでないので、以下は、この映画だけを見ての感想となることをお断りしておく。

 主役の4人が全員ヤク中で、従って幸せな結末などあろうはずもなく、救いは全くない。おまけに、グロテスクな描写で大袈裟にあおっているところもあるので、人によっては生理的に駄目だったりするかもしれない。にもかかわらず、個人的にはそれほど「くる」ものはなかった。なにせ、ガンガン攻め込んで行くが如き目まぐるしいテンポとカット割りは、なにかをすっこーんと通り抜けちゃって、コミカルですらある。そういう、どっか突き放したような描写に、非常にクールでドライな印象を受けたので、麻薬の害悪をリアルに、容赦なく描いた作品であることに異論はないものの、皮膚的な恐ろしさを感じるまでには至らなかったのだ。うーん、役者たちは半端でない熱演を繰り広げているんだがなあ。
 映像自体は斬新で(や、一歩足を踏み外すと陳腐なホラー映画になりかねない、とも言えるか。くわばらくわばら)、低予算のインディーズ映画よろしく、まず作り手が楽しんでいることが感じられる。テレビ、甘いお菓子、コーヒー、そして「ダイエット」という行為……中毒は麻薬だけでないのだ、と言う主張もきちんと伝わってくる。クスリでイっちゃったら、世の中がこんな見え方をするのであろう、とリアルに思わせてしまう世界の組み立て方も巧みだ。後半、病院のシーンがあるんだが、「いくらなんでも今の病院でこんなことはしねえだろ!」と突っ込みを入れたくなる場面が出てくる。長年テレビドラマ「ER」にはまっている身としては、黙っちゃおれないような嘘臭い描写だ。しかし、ふと、「あ、これもドラッグでおかしくなった彼らの主観的な視点からだと、こう見えるってだけなのか」と思い至り、納得。見ていたテレビと自分がごっちゃになって乱痴気騒ぎになったり、口がぱっかり裂けた人喰い冷蔵庫に食われちゃったりしている世界だもんな。
 
 ところで、ジャレッド・レトという俳優を初めて知った時から、どこかで見たことのある顔だなあ……とずっと気になっていたのだが、この映画の、どっか詰めの甘いチンピラ風のジャレッドを見て、彼が、漫画家・多田由美氏の描くキャラクターにそっくりであることに気付いた。ぱっちり丸くて大きな瞳に少し上向きの鼻、寂しげな口元は、確実に少女漫画入ってる。むろん彼女はジャレッドをモデルにキャラクターを描いている訳ではないはずなので、驚きと感動もひとしおだった。デジャヴの正体はこれだったんだ。二次元の世界、侮りがたし。ほんと、びっくりするくらい似てるよ。すげえ。
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by terrarossa | 2005-03-03 23:12 | 映画