2006年 03月 14日
「葬儀」(ジャン・ジュネ・著、生田耕作・訳 河出文庫)
 ジャン・ジュネの本を読んだのは、ものすごく久しぶりだった。
 がっつり重くてくどくて難解で、げっそり疲れることうけあいの、体力勝負の読書になることははじめからわかっていたが、やっぱり一気に読んでしまった。

 1980年代後半は、「泥棒日記」はもちろんのこと、「花のノートルダム」も「薔薇の奇蹟」もちょっと古本屋巡りをすれば容易に入手できた最後の時代だったように思う。立て続けに三冊読んで、あまりにも生真面目でパラノイアックな描写に、しばらく頭の中に毒が回ったような状態になった。とりわけ「泥棒日記」には、かなり入れ込んでいた。物語の舞台はヨーロッパ各地で、フランスばかりじゃないというのに、そんなことはいつのまにかどっかへすっとんで、「フランス」は美少年とちんぴらとアニキたちと警官以外は存在しない、めくるめく世界なのだと錯覚。一時期、まちがったフランスかぶれに陥っていたくらいである。

 で、よもやそこから20年ちかくも経って、未読だった「葬儀」に出会えるとは。
 「ブレストの乱暴者」とともに、2003年に河出文庫で復刊していたことをずっと知らないでいた。ここ十年ほど、日本十進分類法9類(いわゆる「文学」)の世界からはすっかり遠ざかっていたからだ。書店で偶然目にしなきゃ気付かないままだった。

 舞台は第二次大戦中、ナチス・ドイツ占領下のパリ。精液と排泄物の匂いたつ、男性器および肛門周辺の執拗な肉体描写が、終わりのない悪夢のように展開してゆく。軍人、死刑執行人、レジスタンスの闘士、少年兵……ジャン・ジュネの妄想あるいは現実のなかで語られる男たちは、すべからく「さかって」いる。視線がぶつかりあうだけで欲情をおぼえ、陰茎は硬くそそり立つ。何かに駆り立てられるように愛を交わす。抱き合い、舐め合い、突っ込み、突っ込まれ、射精する。人称は自由に行きつ戻りつし、他者として外側から見ていた対象が、いつのまにかおのれ自身となったりもする。
 それにしても、互いの肉体を貪るように求め合う彼らの、ひどく強迫的ともいえる「せっぱつまった感」はいったいなんなのだろう。
 彼らは程度の差こそあれ、死はとても近しい位置にある。今この瞬間を生きるだけで、心理的にも肉体的にも未来のことなど考える余裕はない。性の快楽・あるいは苦痛に耽溺し、いっとき現実から、おのれから逃れることで、生と死の境界線上で生きることに折り合いをつけているのか。あるいは他人の肉体を感じることで、つかの間孤独を忘れるために?
 もう明日がないかもしれないならば、なにもかえりみるものはない。あふれる欲望を抑えつける必要はまったくない。そういうことだろうか。 

 とりわけ終盤、ドイツ占領軍に対して起きたパリ蜂起の中、追いつめられ死を前にしたドイツ兵と対独協力兵のフランス人少年が激しく愛し合う場面は「圧巻」のひとこと。この残酷で、そしてたまらなく美しい一節だけでも読む価値はあると思う。
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by terrarossa | 2006-03-14 22:45 |


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