2011年 08月 17日
驚くべきサッカー狂、ショスタコーヴィチ
 たしか中学三年生くらいの頃だ。それまでよく聴いていた(というより聴かされていた)モーツァルトやベートーベンやバッハと同じ「クラシック」というカテゴリーだというのに、この、次にどうくるか予測のつかない音の展開っていったい何なんだ!と衝撃を受けて以来どんどん惹かれていった、20世紀前半のクラシック音楽。とりわけ、ラヴェルと並んで、ショスタコーヴィチは大好きな作曲家だった。そのショスタコーヴィチ、実は大変気合の入ったサッカーおたくだったということを最近知った。驚いた。すごく驚いた。あの荘厳で気難しく、思わず眉間にしわが寄っちゃうような深刻な曲調の音楽を創る偉大な作曲家が、尋常じゃないレベルのサッカー狂だったなんて。

 ショスタコーヴィチがサッカーに傾倒し始めたのは、彼がその類いまれなる才能で、音楽家としての地位を築きつつあった1920年代後半頃からである。やがて時代は、抑圧と粛清の嵐が吹き荒れるスターリン体制へ――本来自由であるはずの芸術活動ですら、体制にそぐわない内容と判断されれば、容赦なく弾圧される過酷な時代へと突入していく。多くの芸術家が逮捕、投獄され、処刑されていった。ショスタコーヴィチ自身も、発表した作品が「反革命的・反社会主義的なフォルマリズム(形式主義的)音楽」とみなされ、厳しい批判にさらされることになった。
 新しい領域の音楽を生み出そうという芸術家としての立場と、当時の共産主義体制との軋轢に苦しんでいたショスタコーヴィチが夢中になったのが、サッカーという競技だった。本業の世界とは全くかけ離れた「趣味」だからこそ、体制におもねることなく、誰に気兼ねすることもない。仕事や家族のしがらみから遠く離れて、思ったことを自由に発言できる唯一のオアシスだった。
 やがてそれは、単なる余暇の楽しみという域をはるかに超えるものとなっていく。きっかけは、自由な創造的行為をはばむ理不尽な抑圧から現実逃避するための口実だったかもしれない。だが結果的には、創作意欲の源となり、音楽活動を、いや、サッカーこそが人生そのものを支えたと言っても過言ではないほど、彼は生涯にわたってそのシンプルな競技に熱中したのである。
 運動があまり得意ではなかったショスタコーヴィチは、選手になることはかなわなかったが、近所で子供がサッカーに興じていればその審判をやり、公式審判員になるための講習を受けようともしていた。世界にその名が知れ渡るほど著名な音楽家となってからも、ひいきのクラブであるディナモ・レニングラード(現:ディナモ・サンクトペテルブルク)の試合を中心に、観戦のため足繁く競技場へ通っていたという。本業が多忙を極める中、地元ばかりではなく、アウェイのスタジアムにまで頻繁に遠征していたそうだ。現在のような交通事情ではなかった時代にもかかわらず、である。
 それだけではない。彼は選手たちと交流を図り、サッカー仲間と忌憚のない議論を交わし、書簡をやりとりし、スポーツ紙に試合評やコラムを寄稿することもあった。さらに彼は、サッカーに関する克明な記録を残している。まだ試合に関するデータ整理など行われていなかった時代に(当時のソ連では、「サッカーは集団のゲームである」とし、ゴールした選手の名前を新聞に載せないことすらあったという)、試合結果の一覧・得点数・得失点差・ゴールした選手や得点ランキングなどを系統立てて整理し、独自に記録していたのである。
 もし彼の生きた時代にインターネットがあったなら、気合の入りまくったサッカーブログを連日更新し、ツイッターではサッカーに関することばかりつぶやいていたかもしれないなあと思うと、ちょっとわくわくしてくる。

a0021929_3385124.jpg その熱狂が嵩じて世に出されたもののひとつが、バレエ組曲「黄金時代」である。とある国の工業博覧会「黄金時代」に、ソビエトのサッカーチームが招待される。彼らは労働者やボクサーたちと交流し、友情をはぐくむが、ファシストの陰謀が彼らを待ち受けていた。最後にファシストの正体は、労働者によって解放された政治犯によって暴かれ、喜ばしい労働の踊りで幕を閉じる。あえてやりましたね、とツッコミを入れたくなるような、やりすぎ感あふれるプロパガンダ的内容であるが、1930年に初演されて以来、長らくお蔵入りとなり、半世紀後の1982年まで再演されることはなかったという。てことはもしや苦行か…と尻込みしかけたが、サッカーをどうバレエ化するのか?という好奇心から、3幕37曲からなる全曲を聴いてみることにした。

 ………実際の舞台を見ることができた訳ではないから断言はできないが、再演は難しいだろうな、ということはなんとなくわかった気がする。「壮大な失敗作」と評されたということにも納得。大風呂敷を広げるだけ広げて、全く収拾がつかなくなったような感じだ。
 や、確かに全編ショスタコ節炸裂で、ディティールの細かさと来たらそれはもう、ファンなら思わず悶えるレベルだし、うねりを上げて暴走する節回しやそのダイナミズムと来たら、くうううーっ!…ってな感じ(←意味不明)。 
 しかし…ジャズやタップの要素も満載、こんだけうねってのたうって起伏に富んでいるのに、単調に聞こえてしまうのはなぜだろう?そもそもこの旋律がどういう振り付けの踊りになるのかということが、全く想像もつかないのである。楽曲発表当時、「こんな音楽に合わせて、はたしてだれが踊れますか?」と悪態をつかれるくらいだったというのだから、プロにとっても相当な難曲だったということか。舞踊曲としてそれはいかがなものか…と書いたところで突然閃く。
 
 これはバレエじゃない、サッカーの試合そのものだよ!!

 超弩級のクライマックスが来たかと思うと、あっさり穏やかに沈み、再びがーっと盛り上がってきて、いよいよ終わりか、と思ったらそうではなくて、まだまだ続くぜ、の繰り返し。演奏時間二時間超を一気にフルで聴き終えてみれば、6対6とか、野球のスコアかよというような馬鹿試合になったあげくに、延長戦でも決着がつかず、PK戦でやっと勝負がついて、見る側もぐったりだよ…的な疲労感でへろへろ。そもそもサッカーなど、興味のない者にとっては、25人(フィールドプレーヤーとGK、主審と副審2人も含めて)が一つのボールを追って、右へ行ったり左へ行ったりしているだけの、ある意味単調なアクションの繰り返しにしか見えないような競技だ。ファンであれば、その中での駆け引きや、細かい動きや、チームプレーにおもしろさを見いだしながら熱狂していくところなんだが。「黄金時代」はいわば、サッカーに夢中になりたてのドミートリイ青年が、その情熱をそのまま直接的に楽曲で表現した、未成熟な「若気の至り作品」なのだろう。
   
 後年、プラウダ批判により音楽活動の危機に追い込まれた彼は、「音楽への批判は音楽で黙らせる」という並々ならぬ決意のもと、体制が求める社会主義リアリズムに忠実な「交響曲第五番<革命>」を発表し、名誉を回復する。その「五番」を創り上げる過程で、サッカーは不可欠なものだった。彼はスペインのバスク選抜チーム対レニングラード選抜チームの国際試合や、ディナモ・レニングラードのリーグ戦を観戦するため、スタジアムに通い詰めていたという。すばらしい内容の試合に触発され、高揚し、それが新たな曲を生み出す原動力となった。たぎるサッカーへの情熱が見事に昇華された結果、後にショスタコーヴィチの最高傑作と言われるようになった「交響曲第五番」が誕生したというのだ。そう思って「五番」をあらためて聴くと、非常に楽しい。それまでとはなんだか世界が違って見えるような、聞こえるような…

a0021929_34056.jpg 以前の記事でも紹介した、「ロシア・サッカー物語(大平陽一著、ユーラシア・ブックレットNo.32)」。ショスタコーヴィチがサッカー狂であったことを最初に教えてくれた本。

a0021929_3402676.jpg その引用元が、「驚くべきショスタコーヴィチ(ソフィヤ・ヘントーワ著、筑摩書房)」。350ページあまりの長編だが、なんとその内容の半分近くを占めていたのが、ショスタコーヴィチとサッカーとの関係について。彼が記録していたサッカーノート、友人と交わしていたサッカー書簡についても詳しく紹介されている。読み応えがありすぎて、胃もたれしそうなステキ評伝。だが、現在絶版の上、定価が5,200円という、財布にはあまり優しくない本でもある。

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by terrarossa | 2011-08-17 04:09 | サッカー


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